Powder Snow
遠矢の通う高校は、中高一貫の私立高校だった。真新しい木の匂いが残り、陽の光がよく入る、明るい校舎だった。
遠矢は学校指定のダッフルコートを着て、靴箱に自分の靴を入れると、内履きをぽいっと床に投げ捨てた。かかとが潰れているその内履きには、「とーや☆」「バスケバカ」などと落書きがしてあった。さすがにこの靴で大学の面接は受けられなかったので、その日だけ、浩輔に上履きを借りた。
遠矢が教室へ向かうと、教室の中が騒がしいことに気がついた。
「おす…」
遠矢は恐る恐る騒ぎの輪の中にいる仲間に挨拶をした。遠矢に気づいた小松千秋(こまつちあき)は大きい目を細めて、笑顔を向けた。
「おはよー」
千秋に続き、前原浩輔(まえはらこうすけ)もぶっきらぼうに「おう」と挨拶なのか微妙な言葉を返してきた。
「なんか騒がしいな。どうかしたのか?」
輪の中心にいる啓一に声をかけた。
「いやぁ、ちょっと聞いてよ。うちで飼ってるワンコがね、実は妊娠してたんだけど。相手が気になるからさ、ちょっと注意してみてたわけ。そしたらね、俺ン家の庭に、一匹の犬が来てね、その犬がなんと、国語の若菜ン家の犬だったの!」
「若菜ってさぁ、啓ちゃんのことお気に入りじゃん?だから、若菜の執念じゃないかって話してたのっ」
千秋は啓一のことを「啓ちゃん」と呼ぶ。遠矢と千秋は中学からの付き合いだが、千秋と啓一は小学生の頃から交流があったらしい。こんなに話すようになったのは、中学に入ってかららしいが、それでも、自分の知らない千秋を啓一だけが知っているようで、少し妬けたときがあった。
「若菜かぁ。で、どしたの?そのあと」
遠矢が尋ねた。
「もちろん話し合って、子供が生まれたら、半々で貰いあうことになった。うちはいいけど、若菜ンとこって一人暮らしなのに、いいのかねぇって家族で話してるとこ」
「若菜としたら必死だろうな。お前との接点、失いたくないもんな」
「ホント、美しいって罪だよねぇー」
「このナルシスト!」
遠矢は啓一の首をしめた。啓一は「いったーい」と大袈裟に声をあげた。
それを見て、千秋と浩輔は笑い合った。
「あーあ、このままずっと同じ学校が良かったねぇ」
千秋が笑った顔のまま言った。
少し寂しさのようなものも混じっていたかもしれない。
その笑顔は、どこか曇っていた。
そのとき、ガラガラッと前の戸が開く音がした。担任教師が顔を出した。40歳過ぎの中年教師だ。
「おらー席につけー」
と同時に、チャイムがなった。クラスメートたちは、バタバタと自分の席についていく。遠矢も急いで自分の席へと移動した。
自分の席に座り、ちらりと斜め前の背中に目をやった。
腰の近くまで伸びた明るい色の髪が、華奢な肩から零れていた。その背中―――千秋は、自分の席につくとカバンから筆箱を取り出した。
その行動ひとつひとつが可愛く思えてしまう自分は末期かと、遠矢は思った。無意識に、千秋に目がいってしまうのだ。
千秋は、大きな瞳と透明感のある白い肌を持った美少女で、男子に人気があった。容姿だけではなく、しっかり者で誰にでも分け隔てなく接する性格も人気のひとつだった。クラスの中で、いるかいないかわからないほど目立たない人間にも、遠矢たちを相手にするのと同じように挨拶をし、笑顔を振りまいた。
遠矢個人としては、千秋の、陽を通すとキレイな茶色になる色素の薄い髪がお気に入りだったが、その箇所を褒める人間はいなかったので、マニアックなのかもしれないと思った。
あまり凝視して千秋を見ていると、また誰かに自分の想いがバレてしまうかもしれない。遠矢は視線を自分のカバンに移し、授業の準備を始めた。
すると、自分の前の席に座る浩輔の腕が、ニョキっと隣の机に伸びた。
遠矢の前は浩輔の席で、浩輔の隣は、千秋の席だ。
伸びた手の先を見ると、消しゴムが握られていた。カバーのついていない真っ白い消しゴム。少し小さく感じたのは、多分、一個のものを半分に千切ったせいだろう。
浩輔の方を向いた千秋は、顔を赤くして、両手を振った。
「いいよ、いいよ。一日くらい、消しゴムなくても!なんとかするよ」
浩輔は千切った消しゴムを千秋の机に置き、踵を返した。
「もう半分にしちまったんだし、遠慮するなよ」
「でも…」
「いいって。お前が受け取らないと、コイツの行き場がなくなっちまう」
「うーん…」
寄せてあった千秋の眉根が、徐々に姿を変えていった。数秒何かを考えていたようだったが、口角をあげ、笑顔になった。
「うん、お言葉に甘えて、貰っとく!ありがとっ」
「おう」
浩輔は短く返事だけすると、前を向き、机の中の教科書を探していた。
その一部始終の光景を目の当たりにして、遠矢は、胸に何かが刺さったのを感じた。
―――ふたりは、両思いなのだろうか。
千秋を目で追うと、千秋はいつも浩輔を探している。無意識に。
何度も何度もその現場を発見しては、傷ついてきた。自分がマゾなんじゃないかと思うくらい、千秋の浩輔への想いを再確認した。
では、浩輔は?
浩輔は、千秋をどう思っているのか。
その疑問の答えは、未だにわからない。いや、正解を求めようと努力したことがないのだ。その努力は、自分を更に苦しめるだけ。わかっていて、自ら飛び込むことはできない。
確かめるのが怖いのだ。何もかも、失いそうで。
浩輔という男は、どちらかといえば口数は少なくて、愛想がいいとは言えなかった。それでもスポーツは万能だし、不器用ながら優しいところもあって、女子の人気も高かった。
かといって、女子にだけ人気があるわけではない。
落ち着いていて喧嘩も強い浩輔は、クラスの男子に一目置かれていた。『硬派』というのかもしれない。誰もが認める美形の啓一よりも、男子の憧れは、浩輔に向けられた。
そんな浩輔とは、中学のとき同じバスケ部に所属していて仲良くなったのだが、浩輔の口から特定の女の子の名前を聞いたことはない。
遠矢や啓一と一緒にいることが多い千秋のことはたまに話題に上るが、特別、千秋に思い入れのあるコメントをしたことはない。
千秋の片思いなのだろうか。
―――ああっ!
遠矢はガーっと頭を掻きむしった。
考えても無意味なことに気がついて、思わず暴れた。隣に座るクラスメートの女子は、怪訝な顔で遠矢を見た。
遠矢は用意してあった教科書のページをめくり、大人しく授業に集中することにした。
遠矢は学校指定のダッフルコートを着て、靴箱に自分の靴を入れると、内履きをぽいっと床に投げ捨てた。かかとが潰れているその内履きには、「とーや☆」「バスケバカ」などと落書きがしてあった。さすがにこの靴で大学の面接は受けられなかったので、その日だけ、浩輔に上履きを借りた。
遠矢が教室へ向かうと、教室の中が騒がしいことに気がついた。
「おす…」
遠矢は恐る恐る騒ぎの輪の中にいる仲間に挨拶をした。遠矢に気づいた小松千秋(こまつちあき)は大きい目を細めて、笑顔を向けた。
「おはよー」
千秋に続き、前原浩輔(まえはらこうすけ)もぶっきらぼうに「おう」と挨拶なのか微妙な言葉を返してきた。
「なんか騒がしいな。どうかしたのか?」
輪の中心にいる啓一に声をかけた。
「いやぁ、ちょっと聞いてよ。うちで飼ってるワンコがね、実は妊娠してたんだけど。相手が気になるからさ、ちょっと注意してみてたわけ。そしたらね、俺ン家の庭に、一匹の犬が来てね、その犬がなんと、国語の若菜ン家の犬だったの!」
「若菜ってさぁ、啓ちゃんのことお気に入りじゃん?だから、若菜の執念じゃないかって話してたのっ」
千秋は啓一のことを「啓ちゃん」と呼ぶ。遠矢と千秋は中学からの付き合いだが、千秋と啓一は小学生の頃から交流があったらしい。こんなに話すようになったのは、中学に入ってかららしいが、それでも、自分の知らない千秋を啓一だけが知っているようで、少し妬けたときがあった。
「若菜かぁ。で、どしたの?そのあと」
遠矢が尋ねた。
「もちろん話し合って、子供が生まれたら、半々で貰いあうことになった。うちはいいけど、若菜ンとこって一人暮らしなのに、いいのかねぇって家族で話してるとこ」
「若菜としたら必死だろうな。お前との接点、失いたくないもんな」
「ホント、美しいって罪だよねぇー」
「このナルシスト!」
遠矢は啓一の首をしめた。啓一は「いったーい」と大袈裟に声をあげた。
それを見て、千秋と浩輔は笑い合った。
「あーあ、このままずっと同じ学校が良かったねぇ」
千秋が笑った顔のまま言った。
少し寂しさのようなものも混じっていたかもしれない。
その笑顔は、どこか曇っていた。
そのとき、ガラガラッと前の戸が開く音がした。担任教師が顔を出した。40歳過ぎの中年教師だ。
「おらー席につけー」
と同時に、チャイムがなった。クラスメートたちは、バタバタと自分の席についていく。遠矢も急いで自分の席へと移動した。
自分の席に座り、ちらりと斜め前の背中に目をやった。
腰の近くまで伸びた明るい色の髪が、華奢な肩から零れていた。その背中―――千秋は、自分の席につくとカバンから筆箱を取り出した。
その行動ひとつひとつが可愛く思えてしまう自分は末期かと、遠矢は思った。無意識に、千秋に目がいってしまうのだ。
千秋は、大きな瞳と透明感のある白い肌を持った美少女で、男子に人気があった。容姿だけではなく、しっかり者で誰にでも分け隔てなく接する性格も人気のひとつだった。クラスの中で、いるかいないかわからないほど目立たない人間にも、遠矢たちを相手にするのと同じように挨拶をし、笑顔を振りまいた。
遠矢個人としては、千秋の、陽を通すとキレイな茶色になる色素の薄い髪がお気に入りだったが、その箇所を褒める人間はいなかったので、マニアックなのかもしれないと思った。
あまり凝視して千秋を見ていると、また誰かに自分の想いがバレてしまうかもしれない。遠矢は視線を自分のカバンに移し、授業の準備を始めた。
すると、自分の前の席に座る浩輔の腕が、ニョキっと隣の机に伸びた。
遠矢の前は浩輔の席で、浩輔の隣は、千秋の席だ。
伸びた手の先を見ると、消しゴムが握られていた。カバーのついていない真っ白い消しゴム。少し小さく感じたのは、多分、一個のものを半分に千切ったせいだろう。
浩輔の方を向いた千秋は、顔を赤くして、両手を振った。
「いいよ、いいよ。一日くらい、消しゴムなくても!なんとかするよ」
浩輔は千切った消しゴムを千秋の机に置き、踵を返した。
「もう半分にしちまったんだし、遠慮するなよ」
「でも…」
「いいって。お前が受け取らないと、コイツの行き場がなくなっちまう」
「うーん…」
寄せてあった千秋の眉根が、徐々に姿を変えていった。数秒何かを考えていたようだったが、口角をあげ、笑顔になった。
「うん、お言葉に甘えて、貰っとく!ありがとっ」
「おう」
浩輔は短く返事だけすると、前を向き、机の中の教科書を探していた。
その一部始終の光景を目の当たりにして、遠矢は、胸に何かが刺さったのを感じた。
―――ふたりは、両思いなのだろうか。
千秋を目で追うと、千秋はいつも浩輔を探している。無意識に。
何度も何度もその現場を発見しては、傷ついてきた。自分がマゾなんじゃないかと思うくらい、千秋の浩輔への想いを再確認した。
では、浩輔は?
浩輔は、千秋をどう思っているのか。
その疑問の答えは、未だにわからない。いや、正解を求めようと努力したことがないのだ。その努力は、自分を更に苦しめるだけ。わかっていて、自ら飛び込むことはできない。
確かめるのが怖いのだ。何もかも、失いそうで。
浩輔という男は、どちらかといえば口数は少なくて、愛想がいいとは言えなかった。それでもスポーツは万能だし、不器用ながら優しいところもあって、女子の人気も高かった。
かといって、女子にだけ人気があるわけではない。
落ち着いていて喧嘩も強い浩輔は、クラスの男子に一目置かれていた。『硬派』というのかもしれない。誰もが認める美形の啓一よりも、男子の憧れは、浩輔に向けられた。
そんな浩輔とは、中学のとき同じバスケ部に所属していて仲良くなったのだが、浩輔の口から特定の女の子の名前を聞いたことはない。
遠矢や啓一と一緒にいることが多い千秋のことはたまに話題に上るが、特別、千秋に思い入れのあるコメントをしたことはない。
千秋の片思いなのだろうか。
―――ああっ!
遠矢はガーっと頭を掻きむしった。
考えても無意味なことに気がついて、思わず暴れた。隣に座るクラスメートの女子は、怪訝な顔で遠矢を見た。
遠矢は用意してあった教科書のページをめくり、大人しく授業に集中することにした。