魔法あります
武内さんと先輩
「安達ー、前期のノート貸してくれー。全然話が見えない」
終了のチャイムが鳴ってすぐ、坊主頭を両手で撫で回しながら田中がやってきた。前期の課外は部活の試合でほとんどいなかったけれど、敗退したため後期からは参加できるようになったそうだ。
「田中くん、あたしのノート貸そうか? 安達くんのノートは汚いよ」
「汚いとは何事だ。字が下手だと言ってくれ」
最近じゃ当たり前のように、放課後になると武内さんは俺の元へやってくる。
一緒に「たまや」へ行くためなのだけれど、橋本たちはそれを都合よく解釈してくれているので、俺も武内さんも否定しないままでいる。「二人きりにしてくれよ」という空気を醸し出せば面倒事を避けられて便利だからだ。
「本当だ。安達のノートは汚い。じゃあ武内ちゃんのノート借りるわー。わー頭良い子のノートはキレイだわー」
田中は拝むようにして武内さんのノートを受け取った。こいつには話しておこうと思い、武内さんと付き合っていないことを伝えたけれど、「見ればわかる。俺を誰だと思っているんだ」と言っていた。さすが田中である。
「田中、今日も部活?」
「おうよ。基本テスト週間くらいしか休みねぇんだわ。じゃあ頑張ってくるなー」
「またねー」
武内さんのノートを丁寧に自分のスポーツバッグにしまって、田中は教室を出ていった。午前中を課外に費やして午後からは部活に向かう田中の背中は健やかでまっすぐだ。あいつを見ていると俺も部活に入っておけばよかったかなと考えてしまう。
「さぁ、あたしたちも行きますか」
「だな」
そういえば、武内さんが「たまや」に来るようになって、この課外後の時間も何だか部活のような雰囲気だ。「魔法部」なんて看板を掲げようものなら途端に胡散臭さマックスの集団になってしまうけれど。
「……何あれ」
昇降口で靴を履いて「たまや」への道に近い特別棟がある方へいつも通り足を向けると、植え込みを見つめて武内さんが不機嫌そうに呟いた。
よく目を凝らして見ると、背の高い植え込みの影に隠れるように男女二人組がいた。俯く女子とそれを宥めるようにする男子。人目を避けてこんなところにいるといるということは、痴話喧嘩か何かだろうか。
「武内さん、知り合い?」
「あー……うん、まぁ」
ただの痴話喧嘩を目撃しただけで不機嫌になるはずないと思い、そう声をかけると、武内さんは鼻の頭に皺を寄せて難しい顔をした。わりと可愛い顔をしているのに、こういう表情をするからモテないんじゃないかと友人の一人として心配になる。
「同じ中学の先輩たちだよー。……えー、あれどうなってるの? 気になる……うー」
痴話喧嘩の横を静かに通りすぎ、裏門に続く第二グラウンドへ向かいながら、ボソボソと武内さんが言った。どうにもさっきの二人のことが気になるらしく、苦々しい表情のまま歩いている。
「春香!」
「ひゃっ! ……吉川先輩、お久しぶりです」
いい加減この眉間の皺をどうにかしてやらないといけないんじゃないかと武内さんの顔ばかり見て歩いていたから、前方から人が近づいていたことに気づかなかった。少し日に焼けた、いかにもスポーツ美少女といった感じのスラリとした人が、にこやかに武内さんに声をかけてきた。そのにこやかさに応えようと武内さんも笑顔を作っているけれど、どこかぎこちない。
「春香、彼氏できたんだね」
「ええ、まぁ」
吉川先輩と呼ばれた人は俺にも眩しい笑顔を向けてくれるのだか、そんなことよりもまるでトイレを我慢する子供のように一刻も早くこの場を離れたがっている様子の武内さんが気になって仕方がない。何がそんなにこの子を駆り立てているのだろう。
「ところで春香、慎を見なかった? 裏門で待ち合わせだったんだけど」
「み、見てません! ところで先輩、部活は?」
「表彰台へは上がれず引退だよ。だから今は急いで受験生になってるとこ」
「そうなんですね! お勉強頑張ってください!」
「うん、じゃあね」
あからさまな話題転換を行い、武内さんは吉川先輩を引き離した。普通なら「お前、何か隠しているだろう」とツッコミを入れたくなるほどの怪しさなのだが、吉川先輩はあまり深く物事を考えない人らしく、そのままおかしな様子の後輩を置いて、綺麗なポニーテールを揺らしながら立ち去ってしまった。
「武内さん、つかぬことをお聞きするけどさ」
「何?」
「トイレ我慢してる?」
「ちっがーう! 女の子に対して何てこと聞くのよバカヤロー!」
坂道を上りながら、不機嫌というか不愉快というか、何とも楽しくなさそうな顔をした武内さんにそう声をかけると、思いのほか怒られた。俺は和ませてやりたかっただけなのに。
最初のときのように坂を上りながらヒーヒー言わなくなったから、最近は少しの会話をしながら「たまや」へ向かえるようになっていたのに、今日の武内さんは黙ったままだ。いつもにぎやかな武内さんが黙っているということが、こんなにも居心地の悪いものだとは思いもしなかった。
「ねぇ、安達くん、ちょっと聞いてくれる?」
「たまや」についてからも、ベンチに腰かけて持参したおにぎりを黙々と食べはじめたからどうしたものかと考えていたら、武内さんは突然スイッチが切り替わったようにこちらに向き直った。
「聞いて欲しいのって、さっきのこと?」
「そう。話すと長いし、ちょっと下世話かもしれないけど」
「下世話なのか」
「うん。でも、話したいから話すね」
俺の返事を聞かずに、武内さんは話しはじめた。女性が「ちょっと聞いてよ」と言って話しはじめる場合は、ほとんどこちらに拒否権はないのはわかっているけれど、やっぱりその強引さには驚いてしまう。
「あのさ、特別棟の近くで様子がおかしい二人組を見たでしょ?」
「あの、痴話喧嘩みたいなの?」
「そう。あの男子のほうがさっき会った吉川先輩の彼氏の小宮慎。そして女子のほうが吉川先輩の親友の安田詩織。これだけ聞いたら安達くんはどう思う?」
武内さんはまるで熱愛報道のあった芸能人に対してマイクを向けるリポーターのような鋭さで、俺へズイっと詰め寄った。
武内さんの聞きたがっている言葉はわかるし、俺としてもそれしか頭に浮かばないけれど、よく知りもしない人たちへ向ける言葉としてはちょっとためらわれる。
けれど「わかんない」などという返答を許してくれそうにないオーラを武内さんが放っているから、俺は仕方なく小さな声で「……浮気なんじゃ、ないですか?」と口にした。
「だよねー。うわー……やっぱりそう考えちゃうよねー」
予想通りの答えだったはずなのに、武内さんはズーンと落ち込んだ。
当事者全員が知り合いだと、やっぱり重みも違ってくるのだろうか。
「でもさ、様子は確かにおかしかったけど、さっきのが浮気現場だって断言はできないんじゃない?」
「……いくら彼女の親友とは言え、その彼女を裏門に待たせて彼女の親友とああいう状態って、おかしいなって思う」
「そうだな」
橋本が松野さんをどこかに待たせて、武内さんとただならぬ様子で話し込んでいるのを想像すると、何となくわかった気がする。間違いだと言うことはできないけれど、正しいと認めることはしたくない。モヤモヤするグレーな気持ちだ。
「あたしがどうこう言う話でも、できる問題でもないとわかってるけど、さっきの吉川先輩の様子だと、何も知らないんだなって思うと……」
武内さんは同じ中学出身のあの先輩のことが余程好きなのだろう。色々思うことがあるのか、辛そうに俯いて考え込
んでいる。
他人のことでも、自分にはどうにもできないことでも、勝手に胸を痛めてしまうことはある。
武内さんはそういう気持ちが人一倍強いのだろう。
「ままならないのが人間関係よ。特に男女の仲はね」
「……タマさん」
「また新作アイスを作ったから試食して」
いつから聞いていたかわからないけれど、タイミングよく現れて、タマさんは俺たちにアイスの乗った皿を差し出してくれた。
「今日のはクリームチーズを使ってチーズケーキ風にしてみたの」
「美味しい」
「難しいことを考えなきゃいけないときもあるけど、そのときが来るまでのんびりしなよ。ね?」
「はい」
アイスとタマさんの言葉に癒されたのか、強張っていた武内さんの表情は随分と和らいでいた。やっぱりこういうのは女同士のほうがいいのだろうか。
人の気持ちに寄り添うのは難しい。けれど俺は、それができるようになりたいなぁと思う。