魔法あります
幸せにする魔法
重々しく頭上を覆っていた分厚い雲は消え去り、今日は薄い青空が広がっていた。大きなもくもくとした雲はなく、刷毛でサッと引いたような筋雲が浮かんでいた。
「おいしいね」
「うん。これならいくらでも食べられそうだ」
今日はミケコのおばあちゃんがおはぎを持たせてくれていたから、それをみんなで分け合っていた。餡子から手作りしたというおばあちゃんのおはぎはとても美味しくて、三段の重箱いっぱいにあったのにあっという間になくなった。
「まさか餡子が食べられるなんて思わなかった。初美ちゃんに言ってみよう」
手についた餡子を名残惜しそうにペロリと舐めながらハッちゃんが言った。初美ちゃんというのはハッちゃんの飼い主さんで、会社勤めをしている大人の女の人だ。ハッちゃんを通じて、今度お茶でもしましょうと誘われている。
「ハチ、初美さんと長く一緒にいたいなら、そうやって人間の食べ物にがっつくな」
そうクールにハッちゃんをたしなめたのは、黒のライダースジャケットに細身のジーンズをまとったヌイだ。そういうヌイだって五つくらいおはぎを食べていたのを、俺はしっかり見ている。
「みんな揃えばよかったのにね。でも、おはぎ全部なくなってよかった」
空になった重箱を風呂敷で包み直そうとしながら、ミケコが言った。三段の、しかもおはぎがぎっしり入った重箱を持って「たまや」までの坂道を上ってきたと聞いたときは驚いたけれど、本人はケロリとしているから、もしかしたらそういう部分にも魔法は働いているのかもしれない。
「食べたかい? じゃあにゃんこたちは奥でお勉強だよ」
食べ終わったのを見計らって、タマさんが奥から声をかけてきた。
猫娘たちは元が猫なだけあって人間社会のあれこれを知らない。そのためタマさんが家庭教師を買って出て、あの子たちに色々と仕込んでいるらしい。
「はーい」
元気良く返事をすると、猫娘たちは奥の座敷へ駆けて行った。騒がしかったのが潮が引くようになくなり、お腹が満たされたとき特有のぬくぬくとした空気だけが残った。
「幸太くんのおじいちゃん、元気になったかな?」
「魔法自体はうまくいったと思うけど、魔法がどれだけ藤雄さんを救えるかはわからないからな」
「……そうよね」
ラムネを飲みながら、武内さんと二人並んでベンチで、坂のほうを見ていた。言葉にはしないけれど、今日はお客さんを待ついつもの姿勢ではなく、特定の人物がやってくるのを二人とも待っていた。
もしかしたら、うまくいっていないかもしれない。うまくいっていても、昨日の今日じゃここには来ないかもしれない。
それでも俺は、坂を上ってくる幸太の姿を想像してしまう。
笑顔になってほしいと願っているから、早く笑顔に会いたい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
坂の下から、元気な声と足音がする。そしてそれに続く、優しげな声。
「こらこら幸太、走るんじゃない。転んだらどうするんだ」
「幸太くん!」
「お姉ちゃん!」
待ちきれなかった武内さんは走っていって、坂を上りきったばかりの幸太を抱きしめた。その後ろからは、ゆっくりとした足取りのおじいさんの姿があった。
「藤雄さん、ですか?」
「はい。幸太の祖父の高村藤雄です。この度は大変お世話になりました」
藤雄さんは深々と頭を下げた。そのお辞儀のあまりの美しさに俺も武内さんも恐縮してしまい、慌ててお辞儀を返した。
「ピッピ、うまく魔法使えたんだって」
「おかげさまで妻の想いを知ることができました」
ピースをする幸太の横で、藤雄さんはまた頭を下げた。それにつられて俺たちも慣れないお辞儀で返すから、端からはちょっと不思議な光景に見えたかもしれない。
「ヤエさんに静代さんと藤雄さんのお話を聞いて、小鳥の魔法を知っていただけですから」
恐縮しながら言うと、藤雄さんは照れたように頬をかいた。
「ヤエさんは何でも話してしまうんだから……恥ずかしいな。でも、本当に助かりました。ありがとう」
藤雄さんに握手を求められて、それに応えた。大きくてがっしりとした手に握られて、こんなふうに感謝されるのは気持ちが良いなと感じた。
「おじいちゃん、どんな呪文だったのか教えてくれないんだよ」
「呪文というような大層なものじゃないんだよ。幸太にもいつか大切な人ができたらわかるさ」
「えー」
藤雄さんはカッカッカと笑いながら幸太の頭を撫で、それから俺と武内さんを意味深な目で見た。いや、だから違うんですよと言いたいけれど、何もわからず武内さんは笑っているから、黙っておくことにした。
「悲しみに暮れるばかりで忘れてしまっていたんだが、私と静代の間にはいつだって小鳥がいたんだよ。……二人の幸せの象徴だったんだ」
「ピッピは青い鳥だからね」
「ああ、そうだな。幸せの青い鳥だな。静代は言ってくれたんだ。『藤雄さんと一緒になれて幸せでした。先に行って待っていますから、ゆっくり来てくださいね』と」
「最期にそう言えるって、本当に幸せですね」
しみじみと噛みしめるような藤雄さんの口ぶりに、武内さんは少し声を湿らせていた。
俺もちょっと涙腺が緩んだけれど、急いでしめなおした。
「おじいちゃん、もう元気?」
しんみりした空気で不安になったのか、幸太はあわてたように藤雄さんに尋ねた。そんな孫を愛おしそうに見つめ、藤雄さんはまた豪快に笑う。
「元気だよ。私も最期は笑って旅立たなきゃならないからね。これからは幸太とたくさん楽しいことをするさ」
「うん!」
幸太と藤雄さんは顔を寄せ合って、幸せそうに笑った。その顔を見て、もうきっと大丈夫だろうと感じた。
魔法は人を幸せにするためにあるけれど、やっぱり最後に人を救うのは、人の温かな気持ちなのだと思う。
俺もいつか、魔法を必要とする日が来るだろうか。もし来るならば、それは誰かのための魔法がいいなと思った。
「おいしいね」
「うん。これならいくらでも食べられそうだ」
今日はミケコのおばあちゃんがおはぎを持たせてくれていたから、それをみんなで分け合っていた。餡子から手作りしたというおばあちゃんのおはぎはとても美味しくて、三段の重箱いっぱいにあったのにあっという間になくなった。
「まさか餡子が食べられるなんて思わなかった。初美ちゃんに言ってみよう」
手についた餡子を名残惜しそうにペロリと舐めながらハッちゃんが言った。初美ちゃんというのはハッちゃんの飼い主さんで、会社勤めをしている大人の女の人だ。ハッちゃんを通じて、今度お茶でもしましょうと誘われている。
「ハチ、初美さんと長く一緒にいたいなら、そうやって人間の食べ物にがっつくな」
そうクールにハッちゃんをたしなめたのは、黒のライダースジャケットに細身のジーンズをまとったヌイだ。そういうヌイだって五つくらいおはぎを食べていたのを、俺はしっかり見ている。
「みんな揃えばよかったのにね。でも、おはぎ全部なくなってよかった」
空になった重箱を風呂敷で包み直そうとしながら、ミケコが言った。三段の、しかもおはぎがぎっしり入った重箱を持って「たまや」までの坂道を上ってきたと聞いたときは驚いたけれど、本人はケロリとしているから、もしかしたらそういう部分にも魔法は働いているのかもしれない。
「食べたかい? じゃあにゃんこたちは奥でお勉強だよ」
食べ終わったのを見計らって、タマさんが奥から声をかけてきた。
猫娘たちは元が猫なだけあって人間社会のあれこれを知らない。そのためタマさんが家庭教師を買って出て、あの子たちに色々と仕込んでいるらしい。
「はーい」
元気良く返事をすると、猫娘たちは奥の座敷へ駆けて行った。騒がしかったのが潮が引くようになくなり、お腹が満たされたとき特有のぬくぬくとした空気だけが残った。
「幸太くんのおじいちゃん、元気になったかな?」
「魔法自体はうまくいったと思うけど、魔法がどれだけ藤雄さんを救えるかはわからないからな」
「……そうよね」
ラムネを飲みながら、武内さんと二人並んでベンチで、坂のほうを見ていた。言葉にはしないけれど、今日はお客さんを待ついつもの姿勢ではなく、特定の人物がやってくるのを二人とも待っていた。
もしかしたら、うまくいっていないかもしれない。うまくいっていても、昨日の今日じゃここには来ないかもしれない。
それでも俺は、坂を上ってくる幸太の姿を想像してしまう。
笑顔になってほしいと願っているから、早く笑顔に会いたい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
坂の下から、元気な声と足音がする。そしてそれに続く、優しげな声。
「こらこら幸太、走るんじゃない。転んだらどうするんだ」
「幸太くん!」
「お姉ちゃん!」
待ちきれなかった武内さんは走っていって、坂を上りきったばかりの幸太を抱きしめた。その後ろからは、ゆっくりとした足取りのおじいさんの姿があった。
「藤雄さん、ですか?」
「はい。幸太の祖父の高村藤雄です。この度は大変お世話になりました」
藤雄さんは深々と頭を下げた。そのお辞儀のあまりの美しさに俺も武内さんも恐縮してしまい、慌ててお辞儀を返した。
「ピッピ、うまく魔法使えたんだって」
「おかげさまで妻の想いを知ることができました」
ピースをする幸太の横で、藤雄さんはまた頭を下げた。それにつられて俺たちも慣れないお辞儀で返すから、端からはちょっと不思議な光景に見えたかもしれない。
「ヤエさんに静代さんと藤雄さんのお話を聞いて、小鳥の魔法を知っていただけですから」
恐縮しながら言うと、藤雄さんは照れたように頬をかいた。
「ヤエさんは何でも話してしまうんだから……恥ずかしいな。でも、本当に助かりました。ありがとう」
藤雄さんに握手を求められて、それに応えた。大きくてがっしりとした手に握られて、こんなふうに感謝されるのは気持ちが良いなと感じた。
「おじいちゃん、どんな呪文だったのか教えてくれないんだよ」
「呪文というような大層なものじゃないんだよ。幸太にもいつか大切な人ができたらわかるさ」
「えー」
藤雄さんはカッカッカと笑いながら幸太の頭を撫で、それから俺と武内さんを意味深な目で見た。いや、だから違うんですよと言いたいけれど、何もわからず武内さんは笑っているから、黙っておくことにした。
「悲しみに暮れるばかりで忘れてしまっていたんだが、私と静代の間にはいつだって小鳥がいたんだよ。……二人の幸せの象徴だったんだ」
「ピッピは青い鳥だからね」
「ああ、そうだな。幸せの青い鳥だな。静代は言ってくれたんだ。『藤雄さんと一緒になれて幸せでした。先に行って待っていますから、ゆっくり来てくださいね』と」
「最期にそう言えるって、本当に幸せですね」
しみじみと噛みしめるような藤雄さんの口ぶりに、武内さんは少し声を湿らせていた。
俺もちょっと涙腺が緩んだけれど、急いでしめなおした。
「おじいちゃん、もう元気?」
しんみりした空気で不安になったのか、幸太はあわてたように藤雄さんに尋ねた。そんな孫を愛おしそうに見つめ、藤雄さんはまた豪快に笑う。
「元気だよ。私も最期は笑って旅立たなきゃならないからね。これからは幸太とたくさん楽しいことをするさ」
「うん!」
幸太と藤雄さんは顔を寄せ合って、幸せそうに笑った。その顔を見て、もうきっと大丈夫だろうと感じた。
魔法は人を幸せにするためにあるけれど、やっぱり最後に人を救うのは、人の温かな気持ちなのだと思う。
俺もいつか、魔法を必要とする日が来るだろうか。もし来るならば、それは誰かのための魔法がいいなと思った。