魔法あります

知りたいだけなの

「ただ、知りたいだけなの」
「……」

 目の前の悲壮感を滲ませる人を見て、俺は何も言えなかった。知ってどうするっていうんですか? ――そう思うけれど、その人の隣で祈るような眼差しを向けてくる武内さんを見ると、そんなこと言えるわけがなかった。

 昨日の夜、元気になったのを電話で確認したから、今日は当然元気な武内さんに会えるものだと思っていた。けれど、朝いつもよりも遅く教室に入ってきた武内さんはどう見たって元気ではなくて、一晩中悩みましたというような顔をしていた。
 朝から様子がおかしかった武内さんから詳しい話が聞けたのは、課外が終わって田中たちと別れてからだった。
 武内さんの様子を見て、俺たちが喧嘩をしたと勘違いした橋本たちからのダブルデートのお誘いを丁重に辞退し、今日も勉強するぞと張り切っていた田中を何とか宥めて図書室へ送り出すまでが本当に大変だった。
 それから武内さんの話を聞いたのだけれど、話の内容というより、それから推察される吉川先輩の様子に胸が痛んで何かがごっそり削られた気がした。
 昨日武内さんは、吉川先輩と電話したらしい。
「春香は何を知っているの?」と先輩は尋ねてきたのだという。その声が、落ち込むでも悩むでもなく淡々としたもので、誤魔化しきれないと思った武内さんは、特別棟付近で小宮先輩たちを見たときの様子を話したそうだ。
「私は誰に、どのくらいの間、騙されていたのかな」――それが、武内さんの話を聞いた先輩の反応だったそうだ。
 たったそれだけのことでは、吉川先輩の身に何が起きているのかはっきりとはわからない。けれど、これまで見たものから判断すると、吉川先輩は彼氏と自分の親友の普通ではない関係性に気づいてしまっているということだろう。少なくとも、俺と武内さんが感じ取っている程度には。
 だとしたら、先輩の今の精神状態はかなり不安定ということだろう。
 そのことを思うと、昨日会った小宮という男のヘラヘラとした笑いに苛立ちを覚える。

「悩みを話してくれるとかそういう雰囲気ではなかったから、あとはあたしの近況とか世間話とかして電話を切ったんだけどね。『たまや』の話をしたらすごく楽しんでくれてたから、たぶん元気だとは思うんだけど……」

 そう言って武内さんが話を締めくくろうとしたとき、教室の戸が勢いよく開けられた。そこには、思いつめた顔をした吉川先輩が立っていた。


「私を『たまや』に連れて行って」

 俺と武内さんを見て、吉川先輩はそう言った。そのとき教室には俺たちしかいなかったのが幸いだったけれど、他に人がいたとしても同じことを言っただろうと思うくらい、そのときの先輩は周りが見えていない様子だった。

「私には、魔法が必要なの」
「魔法が必要って、どうしてですか?」

 頭のどこかで警告音が鳴っているのを感じていた。この人はダメだと。この人は「たまや」にたどりつけないと。

「慎と詩織がいつから私を騙していたのか……付き合っていたのか知りたいの」

 真っ黒な、何も映していない瞳をして先輩は言う。その目を見て、俺の中でなぜ警告音が鳴るのかがわかった。魔法を使っても、きっとこの人を幸せにすることができないと感じるから、俺はこの人を「たまや」に連れて行きたくないのだと思う。

「ただ、知りたいだけなの」

 か細いけれど芯の通った声で言う吉川先輩の顔は、能面のようだった。橋姫や般若のような恐ろしげな顔ではなく、儚げにすら見える小面のような顔。それが逆に怖かった。

「何かしてやろうとか、そんなことは考えてないから安心してよ……」

 俺の表情から何かを読み取ったのか、先輩はそう言って困ったように微笑んだ。ようやく浮かんだ人間らしい表情だけれど、押し込めたものが溢れ出したようで余計に心配になる。
 自分を裏切っただろう恋人と親友に、目の前のこの人が何かをするとは思っていない。けれど、どうにかなってしまいそうだとは思うから、この人の願いは叶えてやれない。

「もう今更何をしたって、慎の気持ちが私に帰ってくるなんて思ってない。だから、終わりなんだってわかってるの。……でも、何も知らないまま別れ話を聞いて『はいそうですかお幸せにね』なんて言えないから……ちゃんとすべてを知って、覚悟を決めたいだけなの」

 涙を堪えて懇願するように先輩は言う。
 武内さんは、一体どのように俺のことを説明したのだろうか。
 祈られても拝まれても、俺はただの高校生で、目の前で悲しみや怒りに耐えるこの人を救ってやることはできないのに。

「知ることで、先輩は救われるかもしれないよ?」

 俺の葛藤を感じ取ったのか、武内さんが言った。相変わらず、祈るような視線でこちらを見ている。そんな目で見つめられたって、先輩を余計に苦しめるかもしれない選択なんてできないのに。

「部活を引退して、二人と過ごす時間が増えて、気づいちゃったの。そしたら慎が別れ話をしようとしてきて……ここ数日、それから逃げてたの。逃げても意味ないってわかってるけど……友達と恋人を同時に失う覚悟なんて、そう簡単にできないでしょ? だから、知りたいの。私の知らない、どんな事情が二人にあるのかを知ったら、納得できるかもしれないから」
「直接、本人たちから聞くことはできませんか?」
「……聞いても言わないだろうね。『詩織を好きになったから別れてくれ』――これしか言われなかったら、聞くだけ惨めでしょ? でも、私は知りたい。知らないままでいたら、二人を恨んでしまいそうなの……だから、お願い」

 凛としたその声は、強く俺の胸を打った。この人は、強い人なのかもしれない。知って、納得して、恨まずにいたいと言うのだから。
 恋人と親友が自分を欺いていたことが明白なら、罵って、憎んで、糾弾したいだろうし、感情のままにそういったことをしても、咎める人はそういないだろう。
 それなのにこの人は、ただ知りたいのだという。そんなの、いたずらに傷を深めるだけかもしれないのに。

「――わかりました。って言っても、魔法は決して万能じゃないですからね?」
「ありがとう」
「安達くん、ありがとう!」

 先輩に深々と頭を下げられ、武内さんにもお礼を言われ、もう後には引けない感じだ。
 けれど正直言って、何も思いついていない。


 坂道をズンズンと上っていく。誰も何も言葉を発さず、ひたすらにズンズンと。
 いつもの坂道のはずなのに、今日はやけに遠く感じる。
 運動部だった吉川先輩ですら息が上がっているのを見ると、精神的なことが足を重くしているのではない気がしてきた。

「先輩、もうちょっと、ですからね」

 息も絶え絶えに武内さんが言う。おそらく、先輩に言っているようで実際は自身に向けられた言葉なのだろう。
 雲の少ない青空がぐっと上から迫るような感覚がした頃、ようやく「たまや」が見えてきた。
 ベンチには見知った人たちの姿があり、その人たちを見て、坂を上りながら考えていたことがカチッと音を立ててうまいことはまったような気がした。

「あ、お兄ちゃんが今日は見知らぬ美人を連れてる! 浮気だー!」
「こら、幸太。あいさつもしないで何てこと言うんだ。こんにちは」
「こんにちは。あの、藤雄さん、この前言ってたカメラの……」
「修羅場だー!」

 ベンチに座っていたのは幸太と藤雄さんで、藤雄さんの姿を見たとき、あのカメラを使えばいいんじゃないかと思いついた。
 けれどその話をしようにも、吉川先輩を見た幸太のテンションがあがってしまい、とても会話になりそうにない。
 だから俺は武内さんに目配せをして、幸太を少し離れたところへ連れ出してもらった。

「幸太くん、あっちで写真見よう。この前、可愛い猫の写真撮れたんだよ」
「うん、見るー」

 幸太は子供ならではの素直さと気遣いで、武内さんについて店の奥に入っていった。見知らぬキレイなお姉さんを心配するようにチラッとこちらを見てきたから、安心させるために俺はにっこり笑っておいた。

「藤雄さん、昨日言っていたカメラなんですけど、映ったものはどんな感じでしたか?」
「ああ、あれね。よく映っていたよ。静代との思い出の場所を撮ってまわったから、いろんな年の頃の静代と私が映っていてね。今日ちょうど幸太と見たんだけれど、なかなか楽しかったよ」
「ある過去のことを知るのに、あのカメラの魔法は有効だと思いますか?」
「さぁ、どうだろうね……どこまで狙って撮れるかということなんだろうけど、強い意志で目的のものを念じることができれば、見たいものを映すことができるかもしれないね」

 俺の話の持っていき方も質問の仕方もかなり強引だったと思うけれど、すぐ傍らにいる吉川先輩のほうを見て何かを察してくれたのか、藤雄さんは丁寧に的確に答えてくれた。

「今のビデオカメラみたいに音も一緒に録れるわけじゃないから、映像だけの、しかもどこまで狙ったものが映るかはわからないんですけど、このカメラは過去を映すことができます」
「これが……」

 雑貨の山から取ってきたカメラを吉川先輩に渡した。吉川先輩はそれを受け取って、珍しそうに持ち手を握ってレンズを覗いた。

「藤雄さん、撮ってきたものの現像をお願いできますか? それから、映写機も借りたいんですけど」
「うん、構わないよ。それなら君たちの都合が整ったときにすぐ来られるように、連絡先を交換しておこうか」
「はい」

 てっきりガラケーや簡単ケータイが出てくると思ったのに、藤雄さんのポケットから出てきたのはスマホだった。しかも画面に表示されたQRコードを促されるまま読み取ると、藤雄さんの電話番号やメアドや住所などの詳細な情報を受け取ることができた。

「幸太といると、どんどん新しいことを覚えるんだよ。こうやって、古いものと新しいものは仲良くやっていけるのさ」
「そうですね」

 何の気なしに言ったであろう藤雄さんの言葉は、しっかりとした重みを持って俺の胸に届いた。古いものは新しいものに淘汰されるばかりではなく、こうして力を貸してくれるのだと。


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