もう泣いてもいいよね
その後、タケルの実家に戻り、香澄から他にもいろいろと聞いた。


タケルは他の人には見えていないし、声も聞こえないこと。

タケルは本当は物に触れられないこと。

今までタケルが何かに触れたり何かしたことを、私たちが見えていたのは、そうだと思ってるだけだということ。

タケル自身、そのことは忘れていて、いつもは触ったりしてるつもりらしい。

だから、たとえば、タケルが掃除したところは実際にはきれいにはなっていなくて、香澄がさりげなくきれいにしていたこと。


私はタケルの方を見た。

縁側で小枝を振りながら、山を見ている。

私は目をつむり、気持ちを切り替えてもう一度タケルを見た。

タケルは何も持たない手を振っていた。

タケルが持ったはずの小枝は、縁側にそのままだった。


そうなんだ…


でも、気持ちを切り替えるのはやめた。

私は素直にタケルを見よう。

私は素直にタケルのしたことを受け入れよう。

そう思った。



あと、中央図書館にいた司書も幽霊だったこと。

だから、タケルは彼と話せた。

思い返せば、確かにタケルは、私と香澄と彼以外、話をしていない。


そして、裏祭のこと。

同時期、六ヶ枝祭が行われるが、それは、森川家の祠で行われる。

裏祭は六ヶ枝祭が始まる直前の満月の夜、あの守神山の峰の祠で執り行われる。

祠の裏手に咲く子守花が13年咲き続けるという。

それを13年ごとに供え換える祭が「裏祭」だった。

村の人間でさえ誰も知らなかったことだ。


そして、もっと大事なこと。

人が蘇るという伝説は、タケルのように、成仏できる霊をこの世に留めておくことができること、そして、子守花を手に持っていると、日頃、霊能力の無い者でも霊を見ることができること、この2つの力がその伝説の元らしいことだった。



死んだ人に会えたり、見えることは、ある意味「蘇り」と同じことかもしれない。




だから、本当に「蘇らせる」ことは、できるはずがなかった…
 
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