臆病者で何が悪い!
8月にもなると、課員が順番に夏季休暇を取り始める。だから、通常よりも出勤して来る職員の数は少ない。残業している職員もほとんどいないから、フロア内はがらんとしていた。そんなことは、一年でこの時期だけだ。
夜になっても気温が下がらないから、室内もやっぱりなんとなく暑い。
壁にかかる時計を見れば、夜の九時半を回っている。
区切りのいいところまで終わったら、もう帰ろう。そう思って気を取り直し、パソコンに向かった。
ぐぐぐ……。
パソコンのキーボードを叩く音しか響かない執務室内に、私のお腹の虫の音が。
聞こえてないよね――?
慌てて周囲を見渡した。
確か、ほとんどの職員が帰ったはず――。と思ったら、私の真後ろの席に一人。その席は、生田だ。
その背中がこちらを向くことは無い。
聞こえてない、ってことだよね。
ほっとして自分の席に向き直る。
そこで、夕飯を食べていなかったことを思い出した。こんなこともあろうかと、この日のお昼休み、ランチの帰りにパン屋さんであんぱんを買っておいた。そこのパン屋さんは、私が就職してからずっとお気に入りのお店で、特にこのあんぱんは大好物だ。ずっしりと詰まったあんこは、とっても優しい甘さで、心も身体も満たしてくれる。どちらかというと激務のこの仕事。帰りは終電のことも多いし、延々続く雑務にうんざりすることもある。このあんぱんはそんなささくれだった気持ちを潤しくれる。
透明のビニール袋を開け、つやつやの茶色いパンにぱくついた。
んー、この甘さ!
空っぽの胃に染み渡る。一人幸せな気分になっていたら、後ろで席を立つ音がした。生田が席を立ったみたいだ。
「内野、まだ残ってるか?」
突然生田の声が自分に降って来て慌てる。焦ったように、口の中のあんことパンを飲み込んだ。
「え? ああ、あと少しで帰ろうかなとは思ってるけど、なんで?」
生田の方を振り返りながらそう告げる。生田の視線が、私の顔から私の手にあるあんぱんに移動する。
「俺も腹減ったから、何か買いに行って来ようと思ってんだけど。俺がいなくなったら、あんた帰れなくなるだろ」
確かに私たち以外、もう課内にはいないようだ。執務室を空にして帰るわけには行かない。
それにしても。『俺も腹が減ったから』って、やっぱり私のお腹の音聞こえたのかな。急に恥ずかしくなる。
「別にいいよ。生田が帰って来るまでは待ってるから。あ、それとも――」
生田の視線が気になってしょうがない。
さっきから、あんぱんばっかり見てるよね?
「それとも、これ、半分食べる? 半分にしてこっち側なら、私、口付けてないし。これ、Kビルのパン屋『しむらや』のなんだけど。知ってる? 地下にあるの。すっごく美味しくて私の大好物」
何を一人で焦ってぺらぺら喋っているんだろ。
ほんと、この人、付き合いづらい――。
無表情だし、口数少ないし。生田が喋らない分、なんだか自分が喋らなくてはいけないような気がしてくるから嫌なのだ。別に、そうしろって頼まれたわけではないのだけれど。
「俺、あんこ嫌いだから」
ああ、そうですか。私の説明量と比べて、本当に会話も省エネですね。
「なら、もういいから買いに行ってきなよ。少なくともあと30分はいるから」
「じゃあ、頼む」
生田は表情一つ変えずに、そのまま去って行った。
ここにも暑さを感じさせない人がいた。でも、それは田崎さんとは違う種類のもの。生田の場合は、”爽やかな風”ではなく”冷気”だ。
その後、私は心置きなく残りのあんぱんを堪能した。生田が出て行ってから10分ほど経って、少し息を切らし気味に戻って来た。その姿を見て、彼は彼なりに急いで戻って来たのだと分かる。
「悪かったな」
「そんなに急がなくても大丈夫だったのに――」
そう答えようとしたら、私のデスクにぼんっと生田がペットボトルを置いた。
「なに?」
「お茶だよ」
「見れば分かるよ。そうじゃなくて」
「パンだけって、口乾くだろ」
「……え」
私のために――?
生田の顔をつい見てしまう。でも、そこにあるのはやっぱりいつもの生田の表情で。
「そんな、悪いよ。お金――」
慌てて鞄を掻き回そうとする私にお構いなく、生田はとっとと自分の席に戻っていた。
「俺が勝手に買って来たんだ。金なんていらない」
私に背中を向けたままの生田の声がする。
「あ、ありがと……」
手のひらの中にある緑色のペットボトルを見つめる。そして、もう一度生田の背中を見た。
生田って、あんまり人と必要以上に関わらないタイプだと思ってたけど……。
なんとも不思議な気持ちになった。