臆病者で何が悪い!
9. 臆病者の代償
隣に田崎さんがいる――。それが、私に多大なストレスを与えていた。あんなに、日々の仕事の中の癒しで、一緒に仕事が出来るだけで励ましになっていた人だったのに、どうしてこんなことになっているのだろう。意味が分からない。
「内野さん」
声をかけられただけで、不快な緊張が走る。
「は、はい……」
「これ、決裁おりたからファイリングして」
「分かりました」
仕事上のやり取りにも関わりなのに、田崎の顔を見られない。声までもいつもと違う。
こんな態度じゃ周囲に気付かれてしまうかもしれない。そう思うのに、割り切れない。
近くに生田がいるのにーー。
その時ちょうど、課長が生田を呼ぶ声が耳に届く。
「生田くん、ちょっといいか?」
「は、はい」
「大体の素案は読ませてもらった。大枠ではこれでいい。あとは、この部分のもう少し細かいデータがほしいな。データは多いにこしたことはないからな」
「分かりました」
「申し訳ないが、今日午後一で局長のところに説明に行きたいんだ。1,2時間で頼むよ」
「はい。では」
係長になった生田は、以前にも増して大変そうだ。余計なことで気を紛らわせられないーー。
「ーー生田に、これ以上、気を揉ませることが増えたら、大変だろうね」
「そんなこと、言わないでください――」
仕事中だというのに、田崎さんが私に囁く。
思わず声を上げようとして、すぐ背後には生田がいることに気づき思いとどまった。
「すみません。ちょっと、席外します!」
だから、逃げることしか出来なかった。
突然駆け込んでも支障のない場所ーー書庫しか思いつかなかった。
誇りっぽくて窓のない書庫は独特の匂いがする。隠れるように奥へ奥へと進んで行く。
「やっぱり、ここか」
「田崎さんっ」
その声に体が強張る。
追いかけて来たりして、一体何を考えているのか。
「仕事中にああいうこと、やめてください」
怯えるように見上げても、田崎さんは私に近付いて来る。
「君は、こうでもしないと僕と話をしてくれない」
「私は何も話すことはないです!」
「それは、君の本当の気持ち? 希のためだろ? それと――」
こつん。さらに一歩踏み出す靴の音。
「生田のため。そうでしょ? 内野さんはそういう人だ。今、付き合っている生田を裏切るようなことはできない。だから、無理に僕とのことは考えないようにしている」
「やめてくださいっ!」
何を言ってるのか。理解できない。
「それで生田は嬉しいのかな。本当の気持ちを誤魔化したまま傍にいられて、それで生田は幸せだと思う?」
「勝手なこと言わないで――!」
「そんなに感情的になるってことは、僕が言ってることが図星なんじゃないのかな?」
この人やっぱり、私が好意を持っていたことを知っている。そう確信した。
そして、そのことで、きっと生田にも傷つけるようなことを言ってる――。
『俺と付き合ったこと、後悔してる?』
生田があんなことを言ったのは、田崎さんに何か言われたから――。
「いい加減にしろ!」
「生田……っ」
その時、そこにいるはずのない人の声がして、身体も心も金縛りにあったように固まった。
書庫に建ち並ぶ書棚と書棚の間で、私を生田の背中の後ろに隠した。
「どうなさったんですか、生田さん」
表情一つ変えない田崎さんが、生田を見据えている。
「どうしたって、それはこっちの台詞だよ」
「生田さんには関係のないことだと思いますが?」
混乱して、ただ怖くて。何も出来ずにいる私にいくたが振り返る。
「おまえはもう戻れ」
「でもっ」
「いいから」
有無を言わさぬ強い口調に、私は書庫を出て行った。
生田に、『田崎に何か言われなかったか』と聞かれたのに、私は咄嗟に黙っていることを選んでしまった。
バカ正直に伝えて、生田に無駄な心配や気分の悪い思いをさせたくなかったのだ。私の気持ちは一つだから。
田崎さんに何を言われたって、なんの影響もない。だから余計に生田には知らせる必要がないと思った。
それなのに結局――知られてしまった。書庫での田崎さんと私のやり取りを、生田に聞かれてしまったんだから。すべてが最悪の形になった。
あの後、二人がどういう会話をしていたのか、私には分からない。もうずっと、心臓が痛い。隣にいる田崎さんのこと、そして何よりすぐ近くにいる生田のことを思うと、そこに座っているのも辛い。でも、きっと私以上に、しんどい思いをしているのは生田だ。
あの後、仕事に戻った生田が、作成した資料のミスを上司に叱責されているのを見た。
「生田くん、この資料きちんと見直したのか?」
「何か、誤りがありましたか」
生田がすぐに課長の元へと駆けつける。
「ここ、2年ほどデータが飛んでいる。これじゃあ、使い物にならないだろ」
室内に課長の声が響き渡る。自分の仕事で精一杯なはずの課員の視線が生田に注がれた。
「申し訳ありません。すぐに直します」
深く頭を下げ生田が自分の席へと戻る。
「生田さん。ホント、最近どうしたんですか」
「大丈夫。余計な気を回させて申し訳ありません」
生田がそんなミスをしたのなんて、見たことがない。その生田の背中を見ていたら、胸がきりきりと痛んで目頭が勝手に熱くなった。
毎日ろくな睡眠時間もないほど仕事漬けで、そんな中に私と田崎さんのことでまで気をもませて。本当なら私が少しでも癒してあげなくちゃいけないのに。私は何もしてあげていない。してこなかった。あの広い背中の奥底で、生田はたくさんのことを抱えていたんだよね。私が知らない間に。
それでも結局、生田はきちんと責任を全うし、仕事をやり遂げた。
――おつかれさま。そう一言、告げたかったけれど、生田は同じ係の人と定時過ぎに部屋を出て行った。
その時、生田は私の方を一切見なかった。それに傷つく私は身勝手だ。傷つく前に私にはやるべきことがあるはずだ。疲れ切っていたあの背中と、苦悩に満ちた表情が頭をちらつく。傍に、いたい。
生田の恋人として、今日傍にいなくてどうする?
「すみません。今日はお先に失礼します」
許可を取るでもなく、ただ一方的にそう告げて私は職場を飛び出した。
地下鉄の駅へと向かいながら、手のひらにしっかりと握りしめる。まだ、一度も使ったことのない、生田の部屋の鍵。生田の帰りを、待っていよう。待っていたい。