臆病者で何が悪い!
まいったな……。
人事課長室を出て、思わず実際にそう口にしてしまいそうになった。
なるべく近くどころか、国外じゃねーか。
言い渡された赴任先は、ニューヨークにある国際機関だった。
『生田さんは、英語が堪能だとある。それに、海外赴任を希望していたようだね。君にとっても悪い話じゃないね』
無表情のまま、ただ機械的にそう人事課長が告げて来た。
海外赴任を希望していたって、いつの話だよ――。
それは、新卒で入省してすぐに提出した書類の一項目。
今後の希望か何かの欄に、『海外勤務』と書いたのは覚えている。
でも、それは、語学は結構好きだったし日本以外の場所でも生活して働いてみたいと漠然と思った程度。社会のことなんてよくわからない、呑気な学生あがりの適当なものだ。
そういうの、本当に、忘れた頃に降ってわいてくるんだな……。
当の本人はとっくに忘れていた。
『ぜひ、しっかりと見分を広めて、海外での交渉能力を身に着けてきてくれたまえ』
俺に選択権はない。そんなことは分かっているけれど……。
廊下に出ても、足が前に出ない。
ニューヨーク……遠すぎるだろ。
短くて二年、長ければそれ以上。そんなにも長い間、沙都と離れて暮らすことになる。
それも、会いたいからと言ってすぐ会える距離でもない。年に何回も会えないだろう。
「どうすんだよ……」
心の中で考え込んでいたつもりが、とうとう声になってしまった。
頭の中は、いろんなことが駆け巡る。
不安や不安、そして不安……って、不安しかない。
この距離が、俺たちにとってどんな影響を及ぼすのか。
あれもこれもと考え出そうとするけれど、結局混乱ばかりで何も考えなんてまとまらない。
今は、それより来週からの出張の準備がある――。
今度の出張は、かなりタイトな日程で、職務内容もなかなかに厳しいものだ。
いくら国の中央に権力が集中している、なんて言っても、今のご時世、お上《かみ》が言えば何でもその通りに動いてくれるというわけにもいかない。
県庁の人間たちに懇切丁寧に説明して納得してもらわなければ、結局、国でいろんな政策、制度を決めたところでそれが実行されなければ意味をなさない。
上手く話を進めるためにも、今度の出張のために準備は万端にしておきたい――。
それなのに、ろくでもない爆弾を投下してくれたものだ。
重い足取りで課室に戻ると、沙都が熱心に仕事をしていた。
その姿を目にしても、いつもなら同時に視界に入り込んで来る田崎の姿はなかった。
沙都も、なんだかんだで仕事頑張ってるんだよな……。
嫌な奴が視界に入って来なかったこともあり、つい、沙都の背中をじっと見つめてしまった。
大学を卒業してここに入って、沙都が真面目に仕事をしていたことは知っている。
愚痴は言っても「やめたい」と言っているのを聞いたことは一度もない。
それに、真面目で気配りのできるあいつは、職員の誰からも好かれている。
このまま働き続けていれば、それなりのポジションにもつけるだろうしキャリアも積み上げて行ける。
俺は、一体、どうするべきか――。
「生田さん、電話です」
「は、はい」
田中から受話器を差し出されて、我に返る。
とにかく、もう、悠長なことは言っていられないらしい。
俺は俺で、覚悟を決めなければならない時が来たようだ。