臆病者で何が悪い!
やはり今日も、沙都は始業時刻ギリギリにやって来た。
それも、俺に声をかけられたくないからか――。
以前――と言ってもほんの一週間前は、この朝の時間、二人でどうでもいいことを話していたな。
沙都の俺を避ける徹底した態度に、心が折れそうになる。
でも、この恋愛は俺の心が折れたら終わる――そんな気持ちが心のどこかにあった。
その緊張感が常につきまとっていたような気がする。
だから傷付くことに鈍感でいようとした。
「内野」
でも、俺は逃げない。
沙都から逃げたりなんかしない。
自分の感情なんかより、沙都のことの方が大切だった。
席に着いた沙都の背中に声をかける。
始業の時刻になるのも構わずに、俺は沙都を呼んだ。
確実に俺の見える場所にいるのは、ここ、課室しかないんだ。
いろんな決意と覚悟で、その名前を呼んだ。
「ごめん、急ぎじゃないなら後にしてください。これから電話しなきゃいけないとこがあるので」
その声は酷く機械的なものに聞こえた。
それは敬語だからじゃない。俺が係長に昇任してからは、沙都はこうして仕事中は俺に対して敬語を使うようになっていた。序列が上なのだからと、沙都はケジメをつけるのだと言っていた。
だから、そんな形式的なことじゃなくて、その声が、背中が全身で俺を拒絶していた。
仕事を理由にされたら、これ以上この場で何を言えるだろうか。
「――分かった」
沙都から一歩下がる。そして踵を返そうとした時、田崎と目が合った。
その目がどこか勝誇ったもののように思えて、胸が焼けつくように痛い。
負け犬のように田崎から目を逸らし、自分の席に戻る。
そして、そこが職場であることも忘れて大きな溜息をついた。
「生田さん、どうかしましたか? 県との調整難しそうですか?」
「え? ああ、いや、あれから電話で話して、話まとまったので、大丈夫です」
鶴井さんが心配そうに俺を見ていた。
「なら良かった。今週中には出張の処理済ませたいですよね」
「そうですね。そう出来るように進めましょう」
先週の出張先との調整は、帰庁してからも続いていた。各県との最終合意は今週中には取っておきたい。やらなければならないことが、俺を嘲笑うようにうずたかく積まれている。
それに、赴任準備にも取り掛からなければならない。
俺に与えられた時間は、多くない。
それはつまり、俺と沙都に与えられた時間も確実に減って行くということーー。
少しでも沙都といたいのに……。
俺は椅子に背中を預け、天井を仰ぎ見た。
身体がもう一つほしいと思うほどの業務量に、息つく暇もない。
あっという間に時間は過ぎていて、ふと窓の外を見ればもう真っ暗だった。
電話のやり取りをしていると、定時を過ぎていた。
――18時過ぎ。
沙都の席の方を何気なく見てみると、もう既にその席は綺麗に片づけられていた。
また、逃げられたのか……。
俺は、あいつにとって、逃げ回りたい人間か――。
そう笑いとばそうと思っても、胸が痛いだけだ。
なんとか仕事を早めに切り上げて、今日は沙都のマンションに行こう。
そう決めた。きっと、話さえできれば大丈夫なんだ。
そう言い聞かせても、本当はずっと心の奥底は鈍い痛みが続いている。
――沙都は俺と別れようとしている。
それはやはり俺たち二人の関係を根本から揺るがす感情だ。
ひりひりする。
それでも俺は、そのひりつく痛みに負けたくないと思っていた。
この瞬間までは――。