臆病者で何が悪い!
「――すみません、お先に失礼します」
いつもの穏やかな声とは違う、どこか切羽詰まった田崎の声が耳に届く。
その姿を思わず目で追う。焦るように慌てるように、あっという間に部屋から消えた。
そんなに急いでどこに――。
田崎がいつ帰ろうが俺には関係ない。興味もない。
だけど、頭の中がそれで処理をしてくれない。
沙都もいない。
どこかで、二人――。
勝手に身体が動き、席を立った。
そんなはず、ない。あるわけない。
そう強く思うはずなのに。抗えない。
「生田さん、どこに行くんですか? 関係課との調整なら、この資料を持って――」
気付けば俺はそのまま飛び出していた。
庁舎を出て帰宅する人たちの波を縫うように走る。
沙都と田崎が一緒にいるはずない。
なら、なんで俺は今走っているのか。
俺は矛盾する感情の中で、ただ走っていた。
自分でももう、分からなくなっていた。
沙、都――?
どうしてこういう時、人は見つけてしまうのだろうか。
見過ごしてしまうことだってあるはずで。
結局見つからなかったって結末だってよかったんだ。
なのに、ガラスの窓越しに見える、二つの重なる陰が、俺の視界にご丁寧に入り込んで来た。
田崎に抱き締められている沙都を見た瞬間に、俺は多分、すべてを失ったんだ。
あとはもう、感情だけで動いていた。
理性とか、平常心とか、冷静さとか。
そういう、脳を介さないと出来ない行動は何一つとれなかった。
全部、俺の感情だった。
情けなくて、悔しくて、醜くて、哀しくて、苦しい、俺の感情だ。
これまで二人で積み上げて来た時間さえ否定されたような。
二人で笑い合った時間は、二人で心を通わせた時間は、二人で抱き合った時間は、
全部俺の独りよがりだったんだと俺に突きつけて。
絶望と失望。
このまま沙都は俺との関係を終わらせようとしていた。
その事実は、とっくに俺を壊していたんだ。
それでも、そんな自分を認めたくなくて、そんなこと認められなくて、それでもなんとかしようとあがいていた。
俺には見せてくれなかった弱さを、よりにもよって田崎には見せていた――。
いや。この耐えられないほどの苦しみは、そんなことが理由じゃない。
沙都が、俺を少しも信用していなかったことだ。
俺の中に言いようのない虚しさが侵食するように広がって行く。
試験や仕事とは違う。人の感情は努力でどうにかなるような単純なものじゃないということは分かっている。
それでも――。少しずつ沙都の気持ちは俺に向けられていると思っていた。前とは違う、お互いの気持ちが重なり合って行く実感があった。
無防備なほどに俺全部で彼女を愛した。
それは、俺にとって沙都ほど守りたいものなんてなかったからだ。
唯一無二の、絶対に失くしたくないもの――。
でも、沙都は違った。
俺に何も確かめもせずに、去ろうとした。
俺ではなく、田崎の言葉だけを聞いて。
俺さえ頑張れば――。その考えがどれだけ愚かなことだったのか。
そして、俺では沙都の傷を癒せていなかったということ。
俺は、沙都にとって、前の男と同じだったということだ。
”付き合っているつもりでいたのに相手の男はそうではなかった”
自分だけが浮かれていたと、沙都が過去の話をしてくれたことがあった。
結局、俺の想いもそんな程度にしか伝わっていなかったのだ。