臆病者で何が悪い!
夕飯を調達するために職場の外に出た時には、もう夜の7時半を過ぎていた。
弁当でも適当に買って済ませようと思い、霞が関ビルの地下に向かう。
三月に入って日も過ぎ、少しずつ吹く風に春を感じるようになった。
エスカレーターを下りて、飲食店や弁当屋が並ぶフロアを歩く。
料理は好きでもこういう場合に食べるものにこだわりはまったくない。
目に付いたものを買おうと思った時に、パン屋が目に入った。
あれは、『しむらや』だ。
あの店のあんぱんが、沙都の大好物だったことを思い出す。
俺から逃げ回っていたはずの沙都も、今ではそれなりに残業もしていた。
今日も確か、残っていたはずだ――。
あれを食べると元気になれるとかなんとか言っていたな。
『しむらや』の店先にテーブルが置かれ、『ホワイトデーコーナー』という立てかけとクッキーのようなものが並べられていた。
そう言えば、ホワイトデーか……。
ふっとバレンタインデーの日のことを思い出して、立ち止まる。
あの日、あいつ、とんでもないカッコで俺の部屋で待ってたよな――。
俺の度肝を抜くような姿と、それと裏腹なガチガチに緊張した引きつった顔。
そのアンバランスさが滑稽なはずなのに、そんなあいつの気持ちが可愛くて仕方がなかった。
その時の光景と共に自分の感情も蘇って来て、おもわず口元が緩む。
でも、すぐに自分の表情が強張るのに気付いた。
そんな幸せな光景は、全部過去のものだ。
『しむらや』から目を逸らすように立ち去る。
でも、数歩先で足が止まる。
執務室に戻ると、若手数人と他の係長が何人かまだ仕事をしていた。
その中に沙都の姿もあった。
微動だにしない姿勢でパソコンに向かっている。
その背中が頑なに何かから耐えているように見えた。
でも、まあ、それも俺の思い過ごしかもしれない。
「これ、どうぞ」
その伸びた背中に声を掛ける。
「……え?」
その顔がこちらに向けられた。こうやって沙都と目を合わせるのは、何日ぶりだろう。
その目は、驚きと、そして困惑を滲ませていた。
もう、そんな風にしか見てもらえないのだという事実に、またも胸が痛む。
こんなこと、やっぱりしない方が良かったか……。
そう思ってしまったけれど、もう後の祭りだ。白い紙袋を差し出してしまっている。
「弁当買ってたら、しむらやが目に入ったから。あんぱん」
そう言って、もう一度、沙都の前に突き出した。
「あ、ありがとう……」
引きつった表情のまま、そっとその紙袋に手を伸ばした。
不意に目に入った白い手首には、腕時計だけがはめられていた。
「――今日、ホワイトデーらしいから」
そんなことは言わないつもりだった。ただの同僚みたいな顔して差し入れようとしたのに。
それなのに、そんな意地の悪い言葉を放ってしまった自分の女々しさに、情けなくなる。
ただ沙都が少しでも元気になれればいいと思って買ったのに、
俺は一体何を言っているんだろう――。
「そ、そっか……」
ほら、沙都が今にも泣きそうな顔をして唇を食いしばっているじゃないか。
「じゃあな。しっかり働けよ」
だからと言って俺がどうしてやれることもなく、そう言うのが精一杯で。
振り切るように自分の席に着いた。
部屋の片づけと一緒に一つにまとめた沙都の私物を、未だに返せないでいる。
何の整理もつけられていない、未練だらけの憐れな男だ。