HARUKA~恋~
「おお、晴香ちゃん。来てくれたのか」


マスターは想像よりずっと元気で、呂律もしっかり回っていた。
しかも、せんべいをボリボリかじっていた。

私は肩をガックリと落とした。
せっかく飛んで来たのに、こんなに元気だったら心配いらない。

朝の電話では、意識が朦朧としていて、もしかしたら…と言われたのに。


かける言葉も見つからなかった。


「へえ~、もしかして、君がじいちゃんの助手?随分と地味だね」


丸椅子に腰掛けていたスレンダーな男性がぼそりとそう呟いた。

出会った瞬間にディスられるのはこれで2回目。
もう慣れた。


「こら、日向(ひゅうが)!そんなこと言うんじゃない!晴香ちゃんが可哀想じゃ」


日向さん…?


はじめましてとも言えず、マスターの怒鳴り声で病室が急に静まり返る。

マスターが気まずい空気を断ち切るように、またせんべいをボリボリし出す。

それだけ聞いているとどこか寂しく、虚しい音だが、そこにはわずかながらも滑稽さが含まれていた。

笑い出しそうになるのを必死にこらえていると、私より先に日向さんが吹き出した。


「アッハッハッハ…アッハッハッハ…」

「静かにせんか!」

「じいちゃん、心臓やられてるんだから、大人しくしてたら?俺のこと注意する暇あるなら、自分のことちゃんと管理しろよー」

「日向、暫くここから出ていなさい。私は晴香ちゃんと少々話がしたい」

「わかったよ」


吐き捨てるようにそう言うと、日向さんはふらっとどこかに行ってしまった。


静寂さを取り戻し、私はようやく現実を目の当たりにした。

マスターの細い腕には太い点滴の針が入れられ、一定のリズムで薬を投与されている。
それに、よく医療系のテレビドラマで見るピーピー鳴るモニター心電図もベッドのすぐ隣で役目を果たしている。

マスターは、やはり病気なのだ。


そう確信した瞬間、私は忘れていた胸の痛みを思い出し、呼吸が乱れだしそうになった。
マスターの手前、見舞いに来た私が倒れる訳にもいかないから、大丈夫、大丈夫…と心の中で何度も繰り返し唱えた。


「晴香ちゃん、すまん。まさか、わしが心筋梗塞になるなど思ってもいなかったんじゃ。迷惑かけた。この通りじゃ」


マスターの真っ白の頭には世間一般的に10円ハゲと言われるものがあった。

胸の痛みが増す。

このままでは私も、雑巾が両手でぎゅーっと絞られるように心臓を締め付けられて、失神してしまう。

耳を塞ぎたかったが、マスターは私に構わず話し出す。


「晴香ちゃん、当分店はお休みじゃ。その間の給料はきちんと後で支払うからのお。今回ばかりは許しておくれ。きちんと早く治してコーヒー淹れるから、気長に待っててくれると助かるわい」

「はい…待ってます。早くお元気になることを願ってます」


言葉を絞り出すと私は病室を去った。


…いつものマスターはいなかった。


さっきの言葉、訂正する。

予想通りだった。

この世で1番恐れている“死”が見え隠れしていた。


震えが止まらない。

背中に冷や汗が流れる。

手も痺れて感覚が失われる。

脳の神経回路が遮断され、一切の情報が私の中から消える。


何も感じない、“無”。












「晴香…」










誰?













「晴香…」













誰?













「晴香…!」












だから、誰なの?




答えて。

助けて。










 

「晴香…」
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