宝石箱
タイトル未編集
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午前から正午にかけては特に暑かった。
外ではクマゼミがシャワシャワと鳴いていて、飲んでいたむぎ茶は汗をかきはじめていた。
扇風機はからからと音を立てて、なまぬるい風が肌を撫でる。
あの時、私はふと思い出したのだ。
彼の……幼なじみの、両親が書き残した 覚えがきのことを。
「…蒼(ソウ)、暑いね。」
そして 私が受け継ぐその内容を実行に移すには、絶好の日だと思った。
『銭湯』
「まさか、空調が故障するとは予想していませんでした。」
気だるそうに、横顔の彼が投げ出すようにそう言う。
「こういうことを、“フソクノジタイ”って言うんだっけ?」
「ええ。そうですね。」
彼が昔、よく使っていた言葉を真似た。
わしゃわしゃと 頭をかきながらそう呟いていた彼が好きだったからだ。
気になって、彼の髪にさわってみる。
意外と猫っ毛なようで、1本1本が柔らかくて しっとりとしていた。
「……いちご、暑いですよ。」
「あっ、ごめんね。」
お返しです と私の髪を撫でる彼はずるい。
私達は一緒に暮らしているだけで、恋人同士ではないのに。
心臓がどきんどきんと跳ねて、なまぬるい空気とまざって気持ちがわるくなる。
無垢で残酷な子供のような顔をして、
私を見た。
あぁ、こんな日は 銭湯に行くのが一番だなぁ。
「ねぇ。」
「なんですか?」
「銭湯に行きたいな。」
「……セン、トウ?」
彼はあからさまに分からないというような顔をして、彼と自分の違いを実感させる。
日本生まれでなくても銭湯くらい知っているかと思ったけれど、見当違いだったようだ。
「銭湯っていうのはね、皆が使う大きなお風呂のことだよ。」
「皆が、使うんですか?」
「うん。」
私には昔馴染みのお風呂やがある。
“ゆうけい”という、こぢんまりとしていて煙突が立派なところだ。
初めて訪れた時、夕焼けの景色が好きな私にとってはうってつけなところだと思った。
そこに行くまでの細い路地。
長くておつきさまがとても綺麗に見えるから、割と気に入っている。
「経験したことがないことにはとても興味があります。行きましょう。」
「よかった。」
少しほころんで、笑った。
「風がなくて、むしむししてますねぇ。」
軽いものをつまんだあと、私達は銭湯に足を運ぶ。
今日は風がなくておまけに湿度も高い。
近くで「ジー」と絶え間なく鳴く虫の音色が、夏のまんなかにいることを実感させた。
カラン、コロンとなる彼の下駄が涼しげで、声を立てずに夏の音に耳をすませるのが楽しい。
「……初めてなので、緊張します。」
「ふふ。そんなに気を張らなくても大丈夫だよ。」
ナイロンと綿で作られたタオルを肩にかけて 目を泳がせる彼は新鮮だ。
浴衣のような、ゆったりとした服装もどこかぎこちなくて、微笑む。
何気ない日常の一部に彼がいることが不思議で、素敵で、もどかしかった。
これがいわゆるカップルだったら、隣の背が高い、この安心感のありそうな腕に寄りかかったり、服の裾を握って歩いたりしたんだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、
彼と他愛もない話をして 夏の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「今夜は、満月だね。」
「……久しぶりに見ました。」
まんまるですね、と当たり前のことを言って笑ってみせる彼に、置いて行かれないように、少し早足で まっすぐな道を歩いた。
「ワンワンワン!」
「!」
銭湯の少し手前で、見たことのない茶色の犬が飛び出してきた。
雑種だろうか、そんなことを考える私をよそに 動物を直で見るのが初めてな蒼は驚愕して固まっていた。
「あ……危ないです。下がって、いちご。」
「そ、蒼。」
守ろうとしてくれているのだろうか、ファイティングポーズをとりながら「不測の事態です」と呟く彼の目の前に、遅れて飼い主であろう男が到着する。
「すっ……すみません!」
肩で息をする 中肉中背のその人は、私たちと同じように 使い古したようなタオルを肩にかけていた。
人が良さそうな表情だなぁ、と自然に思い、手を差し伸べる。
「大丈夫ですよ。それより、このわんちゃんは雑種ですか?」
「いちご、その前にこの動物が本当に犬なのか、確認しましょう。危険です。」
間髪入れずに焦りながら私をうしろに追いやる蒼。
大丈夫だっていうのに……。
「あぁ、これは雑種ですよ。そして紛れもない犬です。」
爽やかな笑顔で「こたろうって言うんですよ。」と教えてくれた。
どうやら話を進めていくと、彼も私たちと同じ銭湯に向かう途中のようだった。少し若く見えたので、大学生なのかなぁと 根拠もなくそう思った。
馴染みのようで、初めての蒼にいろいろと銭湯のことを教えてくれるらしい。(私は女湯で分かれるので)
「見ず知らずの私に……すみません。」
「いえいえ!これも何かのご縁ですよ。」
……時間が止まったかのような夏の夜だ。
なまあたたかい風が通る度に、季節の流れを感じる。
きっと彼のはじめてをつくる度に、私は同じことを思うのだろう。
午前から正午にかけては特に暑かった。
外ではクマゼミがシャワシャワと鳴いていて、飲んでいたむぎ茶は汗をかきはじめていた。
扇風機はからからと音を立てて、なまぬるい風が肌を撫でる。
あの時、私はふと思い出したのだ。
彼の……幼なじみの、両親が書き残した 覚えがきのことを。
「…蒼(ソウ)、暑いね。」
そして 私が受け継ぐその内容を実行に移すには、絶好の日だと思った。
『銭湯』
「まさか、空調が故障するとは予想していませんでした。」
気だるそうに、横顔の彼が投げ出すようにそう言う。
「こういうことを、“フソクノジタイ”って言うんだっけ?」
「ええ。そうですね。」
彼が昔、よく使っていた言葉を真似た。
わしゃわしゃと 頭をかきながらそう呟いていた彼が好きだったからだ。
気になって、彼の髪にさわってみる。
意外と猫っ毛なようで、1本1本が柔らかくて しっとりとしていた。
「……いちご、暑いですよ。」
「あっ、ごめんね。」
お返しです と私の髪を撫でる彼はずるい。
私達は一緒に暮らしているだけで、恋人同士ではないのに。
心臓がどきんどきんと跳ねて、なまぬるい空気とまざって気持ちがわるくなる。
無垢で残酷な子供のような顔をして、
私を見た。
あぁ、こんな日は 銭湯に行くのが一番だなぁ。
「ねぇ。」
「なんですか?」
「銭湯に行きたいな。」
「……セン、トウ?」
彼はあからさまに分からないというような顔をして、彼と自分の違いを実感させる。
日本生まれでなくても銭湯くらい知っているかと思ったけれど、見当違いだったようだ。
「銭湯っていうのはね、皆が使う大きなお風呂のことだよ。」
「皆が、使うんですか?」
「うん。」
私には昔馴染みのお風呂やがある。
“ゆうけい”という、こぢんまりとしていて煙突が立派なところだ。
初めて訪れた時、夕焼けの景色が好きな私にとってはうってつけなところだと思った。
そこに行くまでの細い路地。
長くておつきさまがとても綺麗に見えるから、割と気に入っている。
「経験したことがないことにはとても興味があります。行きましょう。」
「よかった。」
少しほころんで、笑った。
「風がなくて、むしむししてますねぇ。」
軽いものをつまんだあと、私達は銭湯に足を運ぶ。
今日は風がなくておまけに湿度も高い。
近くで「ジー」と絶え間なく鳴く虫の音色が、夏のまんなかにいることを実感させた。
カラン、コロンとなる彼の下駄が涼しげで、声を立てずに夏の音に耳をすませるのが楽しい。
「……初めてなので、緊張します。」
「ふふ。そんなに気を張らなくても大丈夫だよ。」
ナイロンと綿で作られたタオルを肩にかけて 目を泳がせる彼は新鮮だ。
浴衣のような、ゆったりとした服装もどこかぎこちなくて、微笑む。
何気ない日常の一部に彼がいることが不思議で、素敵で、もどかしかった。
これがいわゆるカップルだったら、隣の背が高い、この安心感のありそうな腕に寄りかかったり、服の裾を握って歩いたりしたんだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、
彼と他愛もない話をして 夏の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「今夜は、満月だね。」
「……久しぶりに見ました。」
まんまるですね、と当たり前のことを言って笑ってみせる彼に、置いて行かれないように、少し早足で まっすぐな道を歩いた。
「ワンワンワン!」
「!」
銭湯の少し手前で、見たことのない茶色の犬が飛び出してきた。
雑種だろうか、そんなことを考える私をよそに 動物を直で見るのが初めてな蒼は驚愕して固まっていた。
「あ……危ないです。下がって、いちご。」
「そ、蒼。」
守ろうとしてくれているのだろうか、ファイティングポーズをとりながら「不測の事態です」と呟く彼の目の前に、遅れて飼い主であろう男が到着する。
「すっ……すみません!」
肩で息をする 中肉中背のその人は、私たちと同じように 使い古したようなタオルを肩にかけていた。
人が良さそうな表情だなぁ、と自然に思い、手を差し伸べる。
「大丈夫ですよ。それより、このわんちゃんは雑種ですか?」
「いちご、その前にこの動物が本当に犬なのか、確認しましょう。危険です。」
間髪入れずに焦りながら私をうしろに追いやる蒼。
大丈夫だっていうのに……。
「あぁ、これは雑種ですよ。そして紛れもない犬です。」
爽やかな笑顔で「こたろうって言うんですよ。」と教えてくれた。
どうやら話を進めていくと、彼も私たちと同じ銭湯に向かう途中のようだった。少し若く見えたので、大学生なのかなぁと 根拠もなくそう思った。
馴染みのようで、初めての蒼にいろいろと銭湯のことを教えてくれるらしい。(私は女湯で分かれるので)
「見ず知らずの私に……すみません。」
「いえいえ!これも何かのご縁ですよ。」
……時間が止まったかのような夏の夜だ。
なまあたたかい風が通る度に、季節の流れを感じる。
きっと彼のはじめてをつくる度に、私は同じことを思うのだろう。
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