宝石箱
“女湯”と行書体で書かれた朱色ののれんを過ぎて、わたしは馴染みのあるロッカーの前に立つ。
“15”
昔、私はこの15番のロッカーがお気に入りだった。
理由は単純明快。ロッカーの右端の隅に、アヒルのステッカーが貼ってあるからだ。
今は少し薄汚れていて、色も薄くなっている。
1度気に入ったものはなかなか手放せないのと同じように、私はこのステッカーに興味がなくなっても、意地でこ
のロッカーを選び続けていた。
他のお客さんが使っていて15番が空いていない時は、56番を使っていた。
一番はじっこにあって、着替えを見られなくてすむからだ。
持っていた“4”の下足札を洋服と一緒に入れて、私はぺたぺたと音を立てながら浴場に向かった。
*
“男湯”ののれんを 膝を折ってくぐり抜ける滑稽な男に、林は「外国暮らしなのかなぁ」と勝手に思う。
滑稽な男 兼 塩顔な蒼は、所狭しと並ぶ四角い金庫のようなものの数々に目を見張っていた。
「ほう……これは……金庫ですか?」
余程重要なものを入れるのですね、と1人で納得している。
「いえ、金庫というより、ただのロッカーです。」
「着ているものを、入れるのですか?」
「はい。」
蒼は適当な所に衣服を入れたが、やはり彼でも 公共の場で服を脱ぐことは些か恥ずかしかったらしい。
静かにしゃがみこんでいる。
「日本の皆さんは……家族のように、振る舞うんですね。」
「銭湯ですから。」
さぁ、行きましょうと手を差し伸べる林をよそに 上から声が降ってくる。
「よぉ兄ちゃん、大丈夫かい?」
ずんたいの大きい男で、歳は50後半だろうか。気さくな様子で彼を立ち上がらせる。
「風呂は初めてか?」
「ええ。まぁ。」
初対面のその男は、ガハハと豪快に笑い、「ガリガリじゃねぇか」と彼の猫背をたたいた。
なんなんだこの人は と思いながらも、昔住んでいた国のフレンドリーさを感じて、嫌いにはならなかったようだ。
「おれはな、下町で大工やってんだ。お前みたいのを見るとはらはらするなぁ。」
大工から見ると病弱に見えたのだろう。彼は前を隠すことなく、笑いながら豪快に歩いていった。
「……林さん、タオルは“ああ”するのが普通なのですか?」
「うん、まぁこれといった決まりはありませんから。好きでいいと思いますよ。」
蒼はどしどしと歩いていく下町の大工を見習って、ばしりと肩にタオルをかけ 後に続いた。
*
“カポーン”と、いい音がする。
息がすえないほど立ち込めた蒸気に包まれて、一番端の洗面台の前に腰を下ろす。
隣の若い、子供ずれの母親に軽く会釈をしてから、お湯のはった洗面器を ざばっと頭からかぶる。
「ぷはぁ。」
気持ちいい。
水に清められた感じがして、世界がより潤って見える。
ぽう、としたままぶくぶくとせっけんを泡立て、体の上を滑らせる。
つるつるして滑らかな 牛乳石鹸。
ミルクのいい匂いがして、暖かい空気とまざる。
備え付けのシャンプーでわしゃわしゃと頭を洗ったあと、またざばっと頭からお湯をかぶる。
……素敵だ。
きれいで、そしてせつない空間だ。
新しい出会い、2度と会うことはない人々との。
久しぶりの裸の付き合いもいいものだな、と思って大きな湯船に足を入れた。
まるく艶やかに光る水に、
つま先から、太もも。
おへそ、鎖骨。
肩まで使ってから「ふぅ」と快いため息が出る。
蒼はどうしているだろうか。
ちらりと横目で、おつきさまがよく見える混浴のフロアを 眺めた。
*
「蒼さん、まるで犬のようですね。」
あっ、悪い意味じゃないんですよ
と後から付け足して、林は笑う。
なんでも、お湯をかぶった途端髪全体の毛量が減ったように見えて、水浴びをした犬のようだと言いたいらしい。
「確かに……いちごが見たら驚くでしょうか。」
「そうですね。さっきとはまるで違って見えますから。」
「……あの、気になってたんですが 彼女とはどういう関係で?」
一つ間を置いて、林は尋ねる。
その心は邪(よこしま)なものではなく、単なる興味心であった。
「……そうですね。」
がしがしと頭を洗う蒼。とても初めてとは思えない手つきだと林は思う。
「林さんからは、どのように見えますか?」
「えっ。」
なかなか答えにくい質問に、林は持っていたせっけんを滑らせそうになる。
「……恋人、ですかね?」
「不正解です。」
即答だな、と思う林の心はつゆ知らず、蒼は話を進めていく。
その表情は 湯気で曇っていてよく分からない。
「なんというか……よく分からない関係なんです。」
「ご自宅は、ご一緒で?」
「はい。」
「確かに、難しいですね。」
「同棲している状態なのですが、特にこれといったことはありません。」
「でも、一つだけ確かなのは、彼女は私にとって なくてはならない存在だということです。」
「それは……好きということではないのですか?」
「どうなんでしょうね。私には、よく分かりません。」
話は曖昧なまま、しかし2人はさっぱりとした表情で、広い湯船に浸かる。
*
混浴フロアに足を踏み入れた。
どうやらお客は私1人のよう。
大きなおつきさまだけが私を見ていて、ひどく泣きたくなった。
丸い、楕円形の露天風呂に、ゆっくりと浸かる。
身体の芯からぽかぽかとして、ゆらゆらと揺れる胸から膝までのタオルは、自身の心を映し出しているかのようだった。
「きれいだなぁ。」
お月様はこんなに綺麗で寛容なのに、
なんでなのかなぁ。
残り10日もない彼の寿命を数えるのが嫌になって、水に顔を埋めた。
“ガラガラガラ”
「!」
まさかと思って振り向くと、
そこには、20分ぶりの彼の姿が。
水に濡れると髪は伸びたように見えるんだなぁとのん気に思う。
「蒼。」
「……いちご。もしかしてとは思いましたが……。」
「なんか、会いたくなっちゃって。」
水面が揺れて、映っているおつきさまも ゆらゆら揺れる。
思ってもいなかった言葉が口からこぼれて、取り繕うのが面倒だと感じた。
「……」
“会いたい”なんて、返す言葉もないよね。無言がその答えを伝えている。
「会いたいと感じるのは、あなたがひとりでここにいたせいです。」
だから私に会いたかったわけではないのですよ、と微笑んだ。
そうか。
納得して、自惚れていた自分が恥ずかしくなる。
彼は別段、わたしに興味があるわけではないのだ。
分かっていたはずなのに、どこか切なく感じる。
「そう、だね。ちょっとのぼせちゃったのかな。」
「そうですよ。」
入ってもいいですか?
上から聞こえる声に、応えるほどの勇気はもう残っていなかった。
「ん。」
「……随分つめたいんですね。」
水面がひとり分上がって、ゆらゆら揺れる。
彼の方を向くのが少し癪で、大理石に突っ伏して湯船につかっていた。
「……ねぇ。」
「なんでしょう。」
目が水にひたったような感覚で、目の前の木々がゆらゆらと激しく揺れている。
「わたし、まだ一緒にいていいかなぁ。」
「……泣きそうな顔で、言わないでくださいよ。」
思ってないことばかり、さっきから出てくる。涙まで。ぼろぼろぼろ。
ぼろぼろ。
「うう……。」
「よしよし。今日は疲れましたね。」
お風呂上がりのフルーツ牛乳は、火照った体に格別だった。
林さんと下町の大工さんとは、さっき別れた。
きっと、もう会うことはない。
寂しくてあったかくて、さっぱりする
夏の思い出が またひとつ増えた。
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