偽装新婚~イジワル御曹司の偏愛からは逃げられない~
昼下がりのオフィスビルには、まったりと気だるい空気が流れていた。社員のほとんどはランチのために、出払っている。大人数が忙しなく行き交う朝とは、まるで違う会社のようだ。
そんな風に感じるのは、私自身がまったく仕事に集中できていないからだろうか。

「お~い、華さん」
「……」
「華さんってば~聞こえてます?」

美香ちゃんにむにっと頬をつねられても、私の意識はなかなか現実に戻ってこられない。
美香「こわっ!……なんかおかしな病気?」
美香ちゃんはすっかり怯えた様子で、私を遠巻きにした。

(仕事……仕事しなきゃ。でも、全然集中できないよー。昨夜の、今朝の光一さんはいったいどうしちゃったわけー?)

光一さんの姿がフラッシュバックのように浮かぶたび、私は頭を抱えたり、顔を赤くしたりして、お客様の名前を何度も聞き直すというありえないミスを連発した。

そんなひどい仕事ぶりの一日も、ようやく終わりを迎えた。

「も~。今日の華さんは邪魔なだけなんで、さっさと帰ってください。あと片づけておくんで」
美香ちゃんがプリプリしながら、私の持っていた書類を取り上げだ。

今日は美香ちゃんの好意に素直に甘えることにしよう。私は顔の前で両手を合わせて、ごめんねのポーズを取る。

「そんな調子だと、事故りますよ!気をつけてくださいね〜」

美香ちゃんに追い出されるようにして、私は職場を後にする。忠告された通りに、帰り道で私は自転車やら電柱やらに何度かぶつかりそうになった。

浮足立つとは、まさにこんな状態を言うのだろう。気を抜くと、頬も緩んてきて、ひとりでニヤニヤしてしまう。
すれ違う人が不審げに、私を振り返っていく。
でも、仕方ないじゃない。浮かれるなって言われても、無理だ。

(もしかしなくても、これはやっぱり……光一さん、私のことを好きになってくれてる?晴れて、仮面夫婦卒業って感じ?)

私は夢見心地のまま、ふらふらとマンションのエントランスを抜ける。そんな状態だから、当然、入口の植え込みのかげから不審な人影がのぞいていることなんて、気がつきもしなかった。

(光一さんはきっとまだ仕事だよね?気合入れて、ステーキとか焼いちゃおうかな~)
鼻歌をうたいながら、マンションのドアに手をかける。そこで、初めて気がついた。ドアに張り紙がしてあることに。私は思わず、はっと息をのんだ。

『尻軽女、この家から出ていけ』

ぐしゃぐしゃの紙に真っ赤なマジックで、そう書かれていたのだ。






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