君の未来に、僕はいない
記憶の中のカノン
彼は、世界の音を失った代わりに、未来を手に入れた。
たん、たららん、たららん、たららららららら。
あの一節が、目を閉じると頭の中に流れ込んでくる。
ヨハン・パッヘルベルのカノンが大好きで、幼いころ、葵になん度もリクエストして弾いてもらったのを覚えている。
美しい旋律が幾重にも重なりあうと、どこか切ない気持ちにさせる音が生まれる。
「またカノン?」
鍵盤に綺麗な指を置いたまま、葵は呆れた口調でそう言い放った。
葵は、小学五年生にしてピアノの賞をすでに総なめしており、両親は葵にそれは絶大な自信を寄せていた。
朝起きたらピアノ、昼休みもピアノ、学校から帰ってもピアノ、お風呂から出てもピアノ。
とにかくピアノ中心の毎日で、指が鍵盤の上にないと落ち着かないのか、葵は授業中ですら机上でピアノを弾く練習をしていた。
たんたん、という指で机を叩く音が授業中に聴こえると、ああ、彼の頭の中は数式じゃなくてピアノのことでいっぱいなのだな、とすぐに分かった。
常に上の空の彼に対して注意をする教師はいたが、葵は聞いていないようで重要なところだけ器用に聞いており、なにを質問されてもあっさり答えていた。
そんな一見クールな葵に好意を寄せる女子は多く、恐らく結構モテていた部類に入ると思う。
「カノンがいいの。好きやから。何回聴いても飽きんのよ」
「萌音はカノンしか知らないだけでしょ」
「うるさいよ、早く弾いて」
私たち以外誰もいない昼休みの音楽室に、美しい音色が響く。
私はたまにこうして葵の練習を邪魔しにやってきて、カノンをリクエストする、ということを繰り返していた。
葵の細い指が鍵盤に触れて、重低音が音楽室に響き渡ると、部屋の空気ががらっと変わって、他の楽器や机や椅子の存在が消える。
私はここに立っていて、葵はピアノを弾いている。全て無駄な情報がかき消され、その二つの情報しか入ってこなくなる。
ここに大きな湖があったなら、それは大きく美しい波紋が広がるだろう。葵のピアノを聴くと、そんなことをいつも思う。
ピアノのことは詳しくは分からないけれど、葵はきっと、心をピアノの音色に落とし込む才能を持っている。
「葵は、すごいなあ。他の人と違うって、私でも分かる」
「リコーダーもまともに吹けない萌音が?」
「次の大会も、絶対優勝できるよ」