君の未来に、僕はいない
今、私の目の前には青が広がっている。なんの混じりけもない、清々しく澄み切った青。
そこに白を点々と置いて、ナイフを押し当て、勢いよく、力強く切り裂く。そうすると、平らだった白のそれが、一気に雲として立体的に浮かんでくる。まるで3Dのように。

ペインティングナイフでキャンバスを引っ掻く感覚は、こんがり焼いた食パンにバターナイフで柔らかくなったバターを塗る感覚に似ている。
木のフレームにピンと強く張られた、少しのシワも許されていない固い布にペインティングナイフを押し当て、油絵の具を思い切り削ぎ落とす。
ペインティングナイフのエッジを使って描くことによって、削られた部分とそうでない部分の境界がくっきりと分かれ、絵全体に立体感が生まれる。
ガリガリ、という重低音が鼓膜を震わせ、腕の神経一本一本にその振動が伝わってくる。
描いている、というエナジーが血管の中にまで流れ込んでくるようで、なんだかこの音を聞くと集中できるのだ。

「美大生でまともな人間を見たことがない。やつらは個性が許され過ぎているし、時間は有限であることと、就活のシビアさを知らない」

美術の先生を父親にもつ友人の日吉が、消しゴム用に買っておいた食パンを窓際に座ってむしゃむしゃと食べながら不満げに呟いた。そんなことはどうでもいいが、アシンメトリーにカットされた長い前髪を赤く染めているところが腹立たしい。
「最初は、そんなこと藝大目指して予備校通ってる愛息子に言うか? って思ったけど、どうやら結構マジらしい。芸大を出た親父の教え子たちで、三十人中八人がフリーター、一人は美術教師、あとは音信不通らしい」
随分偏った情報をまるで世の中の基準みたいに話す日吉は、今年で三浪だ。近所に住んでいた三つ上のお兄ちゃんだったのに、気づいたら無益過ぎる情報をちんたらと語るつまらない受験仲間になっていたので、今はもう敬称略をしている。
「日吉、ちょっと静かにしてよ、気ぃ散るから」
ここは、市が運営している美術予備校だ。昨年から始まった、芸術で市を盛り上げる町おこしの政策にのっとって、この学校は作られた。
移動して使わなくなった市の美術展示室を居抜きで改装したため、かなり殺風景な外観ではあるが、中は至って普通の教室である。

油絵の具の独特なねっとりとしたにおいを嗅ぎながら食べるカレーパンは、なんとも言い難い味わいである。
私は、窓際にかっこつけて座っている日吉を無視しながら、軽食ブースにある数少ない丸椅子と丸テーブルを使ってをランチを取っていた。
平日の昼間は浪人生や社会人が多いけれど、夜間の部はほとんどが現役生であるため、平日夜の時間帯は他校の生徒がうじゃうじゃいる。そして土曜日のお昼である今日は、最も生徒が多い日だ。

学科の特性なのだろうか。仲間意識が薄く、他人に無関心で、ただただ美大合格を目指して黙々と絵を描いている人が多い。
今私たちが目指すべきゴールは美大合格なのだから、その先のことなんて考えてなんかいられないし、フリーターになっただの音信不通になっただのそんな話はパンのカスと一緒に丸めて捨ててしまえとさえ思う。

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