君の未来に、僕はいない
しかし、触れたのは額ではなく、唇だった。
柔らかいものが唇に唐突に触れ、全く予期せぬ部分に温度を感じたので、私は目を見開いたまま固まってしまった。
「え、なに、なにしとん……」
葵の瞳には、金魚のように口をパクパクさせている自分が映っているであろう。
動揺しきっている私とは反対に、葵は至って冷静に私を見つめて、『上手くいくおまじない』、と私に伝えた。
上手くいくも何も、こんなことを試験前日にされたら集中できるわけがない。逆に失敗しそうだ。
口を押さえたまま茫然自失としている私を部屋に残して、葵はすたすたと一階に降りていった。
私は、その時初めて葵が男の子だったのだと自覚した。

完全動揺しきった私は、あの後朝食を食べたが全く味がしなくて、葵の顔を見ずにすぐに自室に戻ってしまった。
そして今、机の上でさっきのことを思い出しては頭を抱えている。
なぜ葵があんなことをしたのか、私にはちっとも理解できなかった。
冗談にしては過ぎる。これはもはや怒ってもいい案件だと思う。
「あー、もう、集中できんけ……」
小学生のころから使っている学習机に頬をくっつけて項垂れると、ちょうど母の写真が目に入った。

……私の母は、天使のような人だったとばあちゃんは言う。
自分の息子にはもったいないほどの美人で人格者で、全てが完璧だったらしい。
この町に嫁いできた時は、世界的な美人デザイナーがこの町にやってくると、ちょっとした有名人だったそうだ。
母の写真を見返すと、確かに美しいと思った。
私は、母の写真をなんとなく手に取り、目を閉じた。すると、またあの感覚が自分を襲い、過去の映像が鮮明に流れ込んできた。
一体この感覚はなんなのだろう。そんなことを疑問に思う暇もなく、視界いっぱいに母の優しい笑顔が浮かんだ。

「萌音、こっちよ、そう上手」
あれは私が自転車に乗るのを練習していた時のことだ。
家の裏道で、母がつきっきりで指導してくれたおかげで、私はようやく自転車に乗れるようになったのだ。
母は麦わら帽子をかぶっていて、お気に入りの紺のワンピースを着ている。
夏の暑い日差しに当たりながら、母はしぶとく私が自転車をこぎだすのを待っていてくれた。
そして、意を決して足に力を入れて漕ぎ、母が触れる距離まで届いたその瞬間、母は私を自転車から抱き上げて大喜びしてくれた。
「すごいわ萌音、すごいわ、天才」
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