君の未来に、僕はいない
母はすぐに私を大げさに褒める。でも私はそれが嫌じゃなかったし、とても嬉しかった。
母のさらさらとした長い髪が頬に触れてくすぐったかったが、なんだかそれさえ心地よく感じていた
「いい? 萌音、よく聞いてほしいことがあるの」
母は私を地面に降ろして、しゃがんで私と目を合わせながらゆっくり話し始めた。
「自転車を漕いだ今日という日のことを、よーく覚えていてね」
「どうして?」
「過去がその人を作るからよ。どんなに小さいことでも、いつかその記憶が自分を支えてくれる日が来るかもしれない」
あの時の自分は半分も母の言葉を理解していなかっただろう。
でも今は、母の言いたいことがよく理解る。
「辛い思い出も楽しい思い出も苦しい思い出も、いつか自分の個性の1つになる。辛いことは、いつも思い出さなくていいけど、忘れてはならないこともある。あなたを成長させてくれたことなら、どうかひとつの引き出しにしまっておいてほしい」
「引き出しにしまうのー?」
ごめん、ちょっと難しかったよね、と言って母が笑った。
「あとね、萌音、志穂ちゃんの方が先に自転車に乗れたって、落ち込んでたけど、ちっとも落ち込まなくていいのよ」
母の言葉は、まるで絵本のように優しく、魔法をかけられているようだった。
ああ、そうだ、母はあんなに良いことを教えてくれたのに、どうして私は思い出すことができなかったのだろう。

『人の人生に、普通とか特別なんてないのよ。多くの人から拍手をもらえる人生だけが特別だなんて、母さんそんな風には思わない。あなたはあなた以外の誰にもなれないし、誰もあなたにはなれない。唯一で、とっても尊い。たった一つしかない存在に、特別とか普通とか、そんなラベルを張り付けるのはおかしいでしょう?』

あの言葉をもっと早く思い出していれば、自分の作品を壊すなんてこと、しなくて済んだのかもしれない。
どうして今の今まで忘れていたんだろう。
あの母の言葉を、葵にも教えてあげたい。
そうだ、明日葵が新幹線に乗るとき、退屈にならない様にメールで送ってあげよう。
ああいうひとりの時間に読むと胸に染みる言葉だと思うから。

そんなことを思いながら、私は次の日の受験を迎えた。
この一週間、葵がどんな気持ちで私に接していたかなんて、その時の私は知る由もなかった。



センター試験は、終わってみればあっという間に感じた。
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