君の未来に、僕はいない
私の生徒、ということは、下田講師の教授ということだろうか。
その時、葵が静かに目を開けた。
そのことに気付いた教授は、すぐにノートに文字を書いて、葵に見せた。
『具合はどうですか?』と書いて見せると、葵はペンを欲しがる動作を見せたので、教授は葵にペンを渡した。
お願いがあります、と書いて葵は教授の目をまっすぐ見つめた。
それから、痛みに耐えながらゆっくりペンを走らせ、そのお願いを葵は書きあげた。
『一切ニュースでは取り上げないで頂きたい。親にも知らせないでほしい』。
そのお願いに、教授はすぐに首を横に振って、それは聞くことができないと言った。
ニュースについては叶えられるとして、いくらなんでも親に連絡しないということは無理だ、と教授はもっともな意見を述べた。
しかし葵は、首を横に振って、お願い、という意味の手話をした。
それから、弱弱しい文字で、『このことを知らせたくない女の子がいる』、と綴ったのだ。それは、間違いなく私のことだろう。
「葵君が傷ついたと知ったら、その子が悲しむからか」
その問いかけに、葵はこくりと頷いた。
それから、再びペンを握り、渾身の力を込めて葵は教授にメッセージを伝えた。

『親にもその子にももう一生会わないつもりだ。俺は、心に危険な爆弾を持っている』、と。

葵はもしかしたら今、ミノル先輩のあの狂った姿を思い浮かべているのかもしれない。
才能とプレッシャーに押しつぶされて、絵を描く楽しさを忘れ狂ってしまった、あのミノル先輩の姿が、瞼に焼き付いて剥がれないのだろうか。
確かにあの後から、葵の様子は急激に変わった。
葵は、一体何を一番恐れているんだろう。

「……覚えているかな。君が三歳の時、初めてピアノを教えたのが僕だったんだ」
教授は、読み取れるようにゆっくりとはっきりと話し始めた。
「あの時、僕が引き続き受け持っていればこんなことに……いや、言いたいことはそうじゃない。僕は君の弾くピアノがとても好きだった」
葵は、うつろ気な瞳をしていたので、教授の口をちゃんと読めているかは分からなかった。
それでも、教授は話すことをやめずに、優しく優しく語りかけたのだ。

「ピアノでできた傷は、ピアノで癒すしかないよ。辻堂にある僕の教室で、もう一度音楽に関わらないか」

その言葉を最後に閃光が走り、あまりの眩しさに目を閉じると、現実の世界に戻っていた。
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