君の未来に、僕はいない
「葵は普通の子やけん、ちっとも大丈夫なんかやない。こんな時に大丈夫でいられる人なんておらんよっ」
叫んだ声は、教室中に響いて、その場の空気をしんと静まり返らせた。
それでも私は、まっすぐ前を見据えて、先生から目をそらさなかった。
良知先生は正直驚いた顔をしていたけれど、すぐに自分の発言を訂正して、私に謝ってくれた。
面倒くさい子供、きっとそう思われただろう。

強くならなきゃ。
一晩中泣いた次の日、私はそう胸に誓って、泣くことをやめた。
葵が不安定な時期に、私まで悲しくて暗い気持ちになっていたら、葵は誰にも弱音を吐けなくなってしまう。
音のない世界で震えている葵に近づくには、一体どうしたらいい?

考えた私は、図書館に行って、手話の本を熟読した。
その場で手の動きをおさらいして、意味を覚えて、毎日毎日図書館に来ては、手話の勉強をした。
音のない世界に、葵をひとりぼっちになんかさせない。絶対にさせない。
そう思って、私は死に物狂いで手話を覚えた。

それから一週間後、葵が退院したと聞いて、早く会いたいような気もしたし、会いたくないような気もした。
葵に会って、第一声、なんて声を掛ければいいのか分からない。
葵は、その日の午後の授業から学校に来ると聞いていた。
私は何だかそわそわして落ち着かなくて、いつも昼休みに葵の弾くカノンを聴いていたあの音楽室にひとりで入った。

ひときわ存在感を放っているグランドピアノのそばに寄って、私は重たい蓋を開けた。
……そうか、葵はもう、自分のピアノの音色を聴けないのか。
私は、人差し指で鍵盤を押してみた。思ったより力が必要で、家にあるオルガンとは全く違って、驚いた。
ポーン、というまっすぐで美しい音が、教室中に響いた。
葵が弾いたら、一体どれだけこの音は美しく聴こえるだろうか。
椅子に座って、今度はもっと本格的に弾いてみようと思った。
なん度もそばで見ていたから、カノンのサビのところだけなら弾ける。
指の動かし方が難しくて、ちっともリズムに追いつかない。タッチが想像したより深くて、指が疲れる。
葵は、これをいとも簡単に使いこなしていたんだ。

すごいな。こんなに大きな楽器を自分の一部のように扱っていたんだ。ピアノが本当に好きだったんだろうな。じゃないとあんな風に弾けない。

「悔しいよね、葵っ……」
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