だから、君が嫌いだ【短編】
それで、充分だった。


充分だったはずなのに、どうしてこんな、虚しいんだよ。


ブラウスの心臓のあたりをギュッと掴む。


ジンジン、ジンジン。


焼け付くような痛みは、一体いつ、どこからやってきたんだろう。


部屋に満ちた時雨の匂いが苦しくなって目を閉じた瞬間、部屋のドアが開く音と強烈な匂いに、飛び起きた。


「な、何事……⁉︎」


ドアの前には、無表情で皿を持つ時雨。


「なにって、麻婆豆腐」


ぐっと皿を近づけられて、思わず後ずさりした。


赤、というよりもはや黒。


禍々しい、赤黒い豆腐と香味料の塊。


「なんだよこの色⁉︎」


「麻婆豆腐は普通こんなもんでしょ」


「絶対ちがっゲホッ」


赤黒の中から立ちのぼる湯気の、尋常じゃない辛さに咳が止まらない。


「とりあえずっ、私にそれを近づけるなっ!」


甘党の私に、左利きの時雨が持っている、右手の皿の中身は理解できない。


じんわりと涙の膜がはって、食べてもいないのに汗が浮かぶ。


ありえない。


急に立ち上がったと思ったら麻婆豆腐ってどういう経緯でそうなったんだよ。


「てかそれ、時雨が作ったの?」


「それ以外なにがあるの」


ありえない……!


彼女の愛の告白をスルーして麻婆豆腐作りとか、ありえなすぎる。
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