愛されたいのはお互い様で…。

「一日一日を大事に思う事というのが、もしかしたら、何か関係しているものがあるのかもと思ったから」

「私が知らなくて何か身体のどこかで進行していたら解りませんが、私は至って健康ですよ?どこも悪くないです」

「良かったです。…でも、直ぐそんな言い方をして…」

「でも、そうですよ?何も症状が出ないで進行している場合もありますからね」

…確かに、それは誰にでも言える事ではあるけど。…聞かれたら私も同じような返しをするかな。多分、してしまう…。


「私…務の部屋に荷物を取りに行きます」

「今からですか?沢山はありませんよね?身の回りの物だけですよね?今日じゃ無くてもこと足りるんじゃないですか?」

「駄目なんです」

「そんなに行きたいのですか?」

「行かせてください。早く行っておきたいんです」

「あぁ、惜しい…」

「え?」

「今がベッドの中で無かった事が…実に惜しい…」

「もう…。真面目な話です。とにかく行ってきます」

「はぁ、そんなにあの男のところに行きたいのですか?」

「…大事なモノがあるんです」

「…はぁ、そうですか。それ程言うのなら、どうぞ、行ってください。……今夜、戻らないつもりですか?」

「クス。戻ります、直ぐ戻って来ますから…。他の物はどうでも…伊住さんに作って貰った靴だけは、置きっぱなしには出来ませんから。どうしても…取りに行きたいのです」

…あ。

「紫さん…貴女と言う人は…堪らないですね…」

抱きしめられた。回された腕…、手が背中をゆっくりと上下に這う。

「…駄目ですよ」

「…ゔぅ゙。…でも…どれだけ会わなかったと思ってるんです?私は見ず知らずの男で…、しかもあっちは…つき合ってる意識であの男と居たのですよ?私がどれだけ色々心配していたか…紫さんは…」

伊住さん…。

「…ちょっと会わない間に幼児性が増してますよ…直ぐ戻りますから…」

「…解りました。待ってください、もう直ぐ雨になるかも知れません」

そう言って雨傘を渡された。これは私の傘だ。
小鳥の描かれた濃いブルーの雨傘…。懐かしい。

「もうこれで人質としても使えるモノが無くなりましたね。必要なくなりましたから」

レインシューズも渡された。

「履いて行っても可笑しくないから履いて行きます?」

「はい。
…あの、棚にある、オークとモスグリーンのパンプスは…」

「…紫さんのモノですよ。貴女に会えなかったから…。貴女を思って丁寧に丁寧に作りました。…もし、記憶が戻らなくても、貴女に履いて貰いたくて…」

「伊住さん…」

飛びついた。…こんなに思ってくれている人を忘れていたなんて…。どうしてなんだろう。

「紫さん?…さっき記憶が戻った時、銀士榔って、呼んでくれたのに…もう呼んでくれないのですか?私はどちらかと言ったら銀士榔って呼んで頂きたい…」

少し身体を離して覗き込まれた。

「あ、あれは、…お店の名前の方です…」

「私では無く…店…そうでしたか…」

誰がどう見たって肩を落としているのが解った。

「…あ、はい。だって、ここは伊住さんが連れて来てくれた不思議なところ…おとぎの世界のようなところですから。インパクトが強かったんです。だからだと思います。ごめんなさい?…行ってきます」

腕をやんわりと掴まれた。

「…必ず帰って来て下さいね。紫…キスを…してくれませんか?」

「…はい」

胸に手を付き、背伸びをして唇に触れた。

「…言われなくても、しようと思ってましたよ?……好きですから」

「はぁぁ…早く帰って来て下さいね。早くですよ」

抱きしめられた。

「フフ、…はい。直ぐ戻ります」

店を出て路地の手前で振り返った。伊住さんが階段下で手を上げていた。
そこに森も、Ginzirouも確かにある。まだ明るい昼間。突然消えたりしない。

路地を進むと、ぱらぱらと雨が落ち始めた。
傘を広げた。

…務。濡れずに帰ったかな。
少し足早に…そして、駆け出した。


−終−
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