愛されたいのはお互い様で…。

「キャ、あっ、ごめんなさい」

誰かとぶつかってしまった。傘でよく前を見ていなかった。バサッと滴が降った。
頭は務との出会いの夜をぐるぐると巡らせて思い出していたし。人が来てたなんて全く気がつかなかった。…寂しいから、思い出していたのかな。

…長靴。と言うより、レインブーツと言った方がいい。足元に見えたのは、まっ黒でもまっ白でも無い、モスグリーンのお洒落なレインブーツだった。視線を上げると背の高い男性が立っていた。

「大丈夫ですか?ごめんなさい。洋服…前、濡れませんでしたか?」

私の傘が身体に当たったかも知れないと思った。

「いえ、大丈夫です。こちらこそ、雨に気を取られていて、申し訳なかったです。大丈夫でしたか?」

男性はギャルソンのような黒いエプロンをしていた。そのエプロンも裾の辺りから半分程濡れていた。

「凄い雨ですね」

「ええ。もうびしょ濡れです」

「よろしければ、うちの店に来ませんか?」

「え?」

な、に?見上げると優しく微笑んでいた。でも、いきなり、何を言っているの?…何かの勧誘?違うか。カフェでもしていて、そこにって事なのかな。

「クス、…きょとんとしてますね…。当たり前か。服もですが、特に足元、随分と濡れて歩き辛そうです。その先を入って行ったところで、靴屋と併設してカフェをしています。レインシューズをお貸ししますから、さあ、どうぞ?」

…、はっ。我に返った。

「えっ?あ。いえいえ、とんでもない、濡れてますけどもう帰るだけですから、大丈夫です」

親切に声を掛けてくれた事は有り難いと思う。でも見ず知らずの人だ。簡単について行くなんて…有り得ない、出来ない。お店をしていると言われても…解らないし、いくらなんでも簡単について行くのは…。これはまずいでしょ?どういう風に言えば、上手く断りが伝わるのかしら…。
…え?下から添えるように手を取られた。…まるで社交界のエスコートのような扱いだ。さあ、と言ってもう歩き始めている。え、え、あ、細い路地に入って行くようだ。…あ、ちょっと…。もう行く事になってるの?

「あっ…あの、困ります、私…本当に大丈夫ですから」

ちょっと待って。こんな簡単に…私ったら。どうして手を振りほどかないんだろう。…。この路地…、見れば先はどんどん暗くなっている。何だか…この先の様子だって何があるのか解らない…。言ったようなお店が本当にあるのかどうかも定かではない。本当にあるのだろうか。
狭いですから一つにしましょう、と、傘を畳んだ。つまり、相合い傘になったわけだ。

「はい、解りますよ、不安ですよね。知らない人間がいきなりお誘いなんかして。男に連れ去られて…店なんかなくて、何かされたらどうするの、ですよね」

「はい。あ、あ、いえ」

…はぁあ。はい、なんて言ってしまって…困った。口を塞ぎたかったが、傘を持つ手が思うように動かせなかった。あー、どうしよう。

「フ。大丈夫ですよ、そう思われて当然、その通りですから。こういう暗いところを通ってだから、尚更不安ですよね。でも確かに店はあります。でも如何わしい店ではありません。うちは、知る人ぞ知る、みたいな店ですが、大丈夫ですよ。それに、この先は危ない界隈ではありませんので」

「あ、は、い…」

そんな事言われても…。何が大丈夫なのか、如何わしくないといくら言われても…返事はまだ半信半疑、生返事だ。如何わしくない場所だって危険は危険。だけど、よく解らないが、そう言われるとそうなんだと、徐々に思い始めてはいた。この人が言うのだからと、妙に説得力を感じてしまったようだ。多分、吸い込まれそうな目力にだ。いいのかな…こんな私…隙があるのかな…。


…国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪〇だった、ではないけど…。

「…ここですよ」

「え……ぁ」

暗くて細い路地の先は、行き止まり…。一旦足を止めた先は…急に目の前が開けていた。何より、夜なのに夜じゃない…。自然の光が射しているような明るさが目に入った…。今、瞬時に明るくなったの?
道のロータリーみたいだった。こんな所にこんな場所があったなんて…。知らなかった。まるで異世界。

路地の先に現れたのは辺り一面が開けた世界…。見上げてよく見れば、硝子張りの大きなアーケードになっていて、これはドームと言った方がいいかな…。雨は落ちて来ないような造りになっていた。晴れていて暗くなれば、星が見えるのだろうかと想像した。

正面にある建物が、言っていた靴屋さんだろうか。随分と高さもある。外観は古城に似たような石造り。中の右側がカフェスペースになっているようだ。大きな造りの窓からテーブルが見えた。入って見ないとよく解らないが左は工房のように思えた。

「…あの、ここは、おとぎの世界ですか?」

思わずそう言ってしまったのには理由があった。
建物もそうだけど、手前からミックスの小さい花が一面に咲き、イングリッシュガーデンのような植物の群生。建物の横と後ろで囲むように聳えている木立には、小鳥が居ても可笑しくないように思えた。空気も何だか違う気がした。路地裏のように澱んではいない、澄んでいた。
静かで…さっきまで自分が居た世界とはまるで別世界だった。

突然現れた光景を目の当たりにして、不思議な事を言ってしまった。こんな…森のような場所が、こんなところにあるから、不思議に思ったんだ。

「気に入ってくれましたか?こんな造りですが…ただの靴屋です。おとぎと言うなら…、私が貴女のおとぎになりましょう」

さりげなく傘を取り、閉じていた。あ、この傘の中の小鳥みたいな鳥が居ても可笑しくない。

「…え?」

想像をしていたら聞き逃しそうになった。今のはどういう意味?あなたの…おとぎ?

「さあ…、取り敢えず、入ってください。フィットルームに使えるような部屋もありますから心配要りませんよ。そこで濡れた物を脱いで…、靴をお貸し致しますから。さあ、どうぞ」

ドアに手を掛け私の手を取った。

「あ、…は、い…」

こういう風にさりげなく手を取られるからだ。非日常だ。何だか不思議な世界に迷い込んだ気分になって…童話の中に居るような…ふわふわした気持ちになってしまう。ここは現実にある場所だろうか。この男性も現実?ぼんって、いきなり消えたりしない?私は化かされていたりして。

特に抗う事もせず、突然声を掛けられた人について来て、手を引かれ、吸い込まれるように建物に足を踏み入れようとしていた。
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