ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
「体育の時間に走ってたら、急に並走して来て
「ハルが、幻のピアニストでしょう?」って笑顔で言われた・・。爽やかに微笑む聖人に寒気を感じた。」

「確かにそれ、聖人らしいな。
爽やかな笑顔で周りを魅了していたけど、よく人の事を見ているってとこがあったな。」

「とても穏やかだけど、人の機微には目敏いとこがあったわ。」

海と慧と目を合わせて思い出し笑いをした。

聖人の話を出来る事が嬉かった。

私とは違う目線で、別の聖人を知りたかったから。

「二条、聖人が好きだった曲を弾いてくれないか?俺も一度は聞いてみたかった。美桜も聖人もお前の演奏が好きだったんだろ?」

驚いた表情の慧は嫌そうに、海を睨む。

「私も聞きたいわ。
二条先生のピアノ凄い上手そうだもの!」

「確かに一見の価値はありそうだな。
噂になる腕前だろ?聞きたいな。」

咲と寛貴もウキウキしながら、慧にピアノを強請る。

「慧のピアノは素晴らしいわ。
久しぶりに、お兄様の為にも弾いてあげて?」

私も便乗してお願いをした。

何時聞いても忘れられない音が彼の中にあった。

「俺はプロじゃないから、納得のいく演奏は出来ないよ?」

仕方なさそうにピアノの椅子に腰かけた慧は、渋々ピアノの蓋を持ち上げて、鍵盤に長い指を置いた。

皆が息を潜めて、白いピアノに座した慧を見つめていた。

光に照らされたピアノを前にして、美麗な慧が長い睫毛を伏せる。

その絵になる風景にゴクリと喉を鳴らした。

流石の風格で緊張感など微塵も出さない慧は音を奏で始める。

白く長い指が叩き出す美しい音が、部屋中に溢れ出す。

懐かしい音・・。

頑張れって勇気づけられる音。

私の耳の中に入り込む慧の音は、キラキラ輝くような希望の音だった。

私はそっと目を瞑ると、あの日に戻った。

高校の図書室で泣きながら眠っていたあの日の放課後に聞いた音・・。

「ハルの音だ。間違う訳ないわ。
貴方の音は誰よりも優しくて切ないもの。」

涙が乾くような優しい音色・・。

優しく、切ないメロディーが広がる。

高音が煌めき、胸が揺さぶられる。

「凄いわね・・。こんなドビュッシー聞いたことないわ。」

菫が目を輝かせて慧のピアノを見つめていた。

静寂に包まれたリビングには、慧の奏でる
ドビュッシーの「月の光」で溢れていた。

初めての成り行きで連れて行かれたレストランで聞いた慧の好きな曲は、お兄様が好きだった曲なんだ。

全てを理解した私は胸が熱くなった。

リビングから溢れ出した音は、寝室の聖人の元へと届く・・・。

カシャーンと、寝室の方から何かが落ちた音がした。

私には予感がしていた。

駆け付けた私は開いたドアの前で息を飲んだ。
立ち尽くした脚は動きを止めて、一筋の涙が流れた。


息が出来ないくらい苦しかった。


長い間目を閉じて、ベッドへと横たわっていた筈の兄が、起き上がって嬉しそうに涙を流していた。

「美桜、これ、ハルの「月の光」だね。」

綺麗なこげ茶の瞳を長い睫毛が縁取る。

色白の美しい美青年、山科聖人が嬉しそうに微笑んだ。
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