ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
先ほどの会話の衝撃も冷めやらぬ私はガクガクした体を支えながら、戻りが遅い母を案じて探し回っていた。
御手洗いの中も確認し、何処にも母の姿は確認できなかった。
私の足は、ホテルのアーケードショップの廊下まで差し掛かっていた。
母の紫の着物が見えて、声をかけようとすると母の奥に見知った顔が見えた。
「け・・。」
母に慧が交際している事を名乗り出ているのかと不安になり、慌てて割り込もうとしたのだが・・。
どうも様子が可笑しい。
喉から出かかった声をゴクリと飲み込む。
「慧のあんな顔、見たことない・・。何を話しているの?」
見たことのない険しく、冷淡な顔。母のように血が通ってないような凍てついた瞳・・。
私は、背中しか見えない母の様子にも異変を見て取った。
震えるような体、ハンカチで涙を拭う様子・・。
私の視覚に入る情報の全てが信じられなかった。
「美桜?どうした。菫さんと、・・・二条・・!?」
背後から現れた海の手を引いて、急いで私は死角の柱へと身を潜めた。
勢い余って転びそうになった海が抗議するような目つきで私を見る。
「・・おい。」
「しっ!!・・・静かにして。様子が可笑しいの。私、あんなお母様も慧も知らない・・。」
「・・・・・。」
海も黙って2人の様子を見る。
手元にある不安そうな美桜の震える肩をそっと支えた。
「大丈夫だ・・。きっと、大した話じゃない。
交際してるとでも言って言い争ってるんじゃないか。二条の言い方はキツイからな。」
母が取り乱すのを見た事がない私には、大した事がないなんて思えない。
一体何を話しているのか聞きたい・・。
だけど、割って入れる雰囲気ではないのだ。
慧が、話は終えたとばかりに長い脚を進めて歩き出した。
私達は急いで別のルートから、ラウンジへと戻る。
不安な気持ちを抱えながら足早に元いた席へと戻った。
「ごめんなさいね。素敵なジュエリーショップがあって、ついつい手を伸ばして見ていたら遅くなってしまったわ。」
母は、私達が席に戻ってから数分後に現れた。
唇にはしっかり紅が引かれたいつもの母の姿だった。
「いえ、お蔭さまでゆっくり彼女と話せました。それで・・お義母さん、挙式の事はどうしましょうか?
決め事があれば、パンフレットとドレスを合わせるのならそれはこちらで後日調整して行いますし・・。」
「そうね・・。東京にいればドレスショップなんていくらでもあるだろうし。
ドレスはお買い取りさせて頂くし、いくらであっても構わないわ。お金に糸目は付けないから、後は2人に全てお任せするわね。」
ラウンジの従業員が気をきかせて、温かい紅茶を注ぐ。
私は、下を向いたまま言葉を発せなかった。
優しい茶葉の香りとその味に、冷え切った体が温まるようだった。
私の目の前に座した母のカップを持つ手は小刻みに震えている事に驚く。
よく見ると、化粧の意味を成さないぐらい顔が青白かった。
私は、母と話していた時の慧の表情を思い出していた。
感じた事のない種類の不安が大きく広がっていった・・・。