ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
ハル。
同じピアノの先生に教わっている少女、「山科 美桜」は、僕の3つ下の小学4年生だった。
小学生なのに、身長は150㎝以上ある発育の早い大人びた美少女。
彼女の親を知らない人は、この街ではいないだろう。
その親の名前が先に出る、彼女が意識せずとも他の子供たちも畏怖する正統なお嬢様だった。
色白で、色素の薄いサラサラの茶色の髪。
瞳も、人形のように大きく焦げ茶色に光が映るとルビーのように色が変わる。
紅色の頬と、小さな唇がバランス良く並んだ芸術品のようだった。
「ハル君、この曲弾いて?」
「うん?またドビュッシーか・・。好きだね、美桜は・・。」
クスッと笑った僕を、幸せそうに上目使いで見る彼女。
僕のピアノを目を輝かせて聞く彼女は、夕日に照らされてルビーのように光る瞳がまるで生きた妖精のように美しかった。
そんな彼女に同年代の子供達は気軽に話しかける事はなかった。
僕は、小学校の途中から父の仕事で転校して来たから何も意識せずに彼女と仲良くなった。
小学校を卒業した今も、同じピアノ教室に通い月に1~2度は顔を合わす存在。
そして、彼女とはよく町の図書館で偶然出会う事が多かった。
土日や、長期休みにふらっと彼女は現れて図鑑コーナーのテーブルに座りながら目を閉じて、何かを考えていた。
「どうした。何か考えてるの?」
「・・あっ。ハル君!
私今ね、イギリスの街に行っている空想をしていたの。ビッグベンってやっぱり大きいのかな。」
「ふーん。それ、楽しいの?」
中学1年になった僕の素朴な疑問に、美桜は悲しそうに答えた。
「楽しいわ・・。だって現実には、私はこの街から出られないもの。」
僕は、驚いた。
幼い頃に母を亡くし、ずっと父子家庭で育った。
父の仕事の都合で色々な場所を移り住んで来た僕には、その言葉の意味が全く分からなかった。
「何処にでも行けるよ?世界中だって・・。
今は宇宙だって人間は行けちゃうんだよ?行けないのだとすれば・・、それは自分自身が行けないと思っているだけなんじゃないかな。」
「ハル君はすごいな。宇宙にも行けちゃうか・・。私は無理なんだ。
生まれた時から人生全部が決まってるの。進む大学も、結婚相手も全部よ。」
僕は、その言葉を聞いて始めて彼女の孤独を理解した。
大人びてはいるけどまだ小学4年の少女が、人生を諦めていた。
「私は、自分の人生を生きてないの。私は、死ぬ為に生きているだけ・・。」
そう言って図鑑を胸に抱えて笑った少女に、胸が掴まれるような衝撃を受けた。
僕の人生は、彼女に出会って変わった。
いつか、彼女を自由にしてあげたいと思った。