ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
指先に、濡れた長い睫毛に触れてビクリと身体が震えた。
・・泣いていたのだろうか。
そっと優しく頭を撫でる。
目を覚まさない彼女は、夢の中では心安らかなのだろうか。
ぎゅうっと唇を噛みしめて、髪に触れる。
辛い現実から逃げたくて、彼女はここにいる・・・。
図鑑の上で違う世界を想像して、今の現実から逃れるように。
その理由はきっと、僕だけが知っていた。
時々、彼女は顔を歪めて痛みを堪えるような表情を浮かべた。
僕は胸が苦しくなった。
眉を寄せて、彼女の頭を撫でる。
彼女の痛みの全てを、僕が変わってあげられればいいのに。
勢いでここまで来てしまったが、僕は彼女に何が出来るだろうか・・。
反対側の校舎の向かえ側にある、音楽室から吹奏楽部員がゾロゾロと帰って行く。
僕は、それを見つけて弾かれたように図書室から飛び出した。
夕暮れの紅い光が差し込む音楽室のドアをそっと開ける。
誰もいなくなった事を確認して入出すると、窓際に大きな黒いグランドピアノを見つけた。
椅子に腰かけ、そっとピアノの蓋を開けてピアノを叩く。
指慣らしに、ドビュッシーの「夢」を奏でる。
眠っている彼女の夢が優しいものであるように・・・。
夢の中だけでは、せめて現実よりは優しい世界に会えるように。
僕は、1音1音に心を込めて奏でた。
次は彼女が好きな曲。
僕によく強請っていた「アラベスク」を奏でだす。
夕日は落ちて、薄暗くなった音楽室にキラキラ輝く優しい音が風に乗って流れる。
目を閉じて、耳を澄ますとあの頃の自分と彼女の姿が思い出される。
彼女は今の僕に会っても気づかないかもしれない。
だけど、僕は何度も想像していた。
彼女は、すぐに僕に気が付いて「ハル!!」とあの大きな瞳で微笑んでくれる姿を。
嬉しそうに呼ぶ僕の名前を、もう一度君の口から聞きたかった。
もう誰も呼ぶ事のない僕の名と過去の思い出は、色々あった辛い経験よりも君との優しい思い出で溢れていた。
月が薄っすらと輝き出す頃。
中学の音楽室で何度も練習していた曲を奏でる。
僕が大好きだった「月の光」。
僕のピアノを好きだと言ってくれた人に捧げるように・・。
安らかな眠りを・・。
僕の涙腺は崩壊しそうになっていて、ポロリと涙袋から零れた涙に驚いた。
今夜だけは、彼女が安らかな眠りにつけるようにと祈りながら思いを込めて奏でた。
小さな演奏会は終わりを告げた。
暗くなった反対側の校舎から、急いで家へと向かう彼女の姿を見つけた。
小さくなっていく彼女の姿が見えなくなるまで窓からそっと見つめていた。