ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
腕時計を見ながら、時間を気にした様子の美桜が目に入った慧は急いで席を立つ。

「菫さん、もうすぐです・・。
もう少しこのままご協力を宜しくお願いします。そうだ、今日僕はこれから東央大付属病院へ行きます。・・・美桜と一緒に。」

驚いた表情を浮かべた菫は、ため息をついた。

「そう、遂にそこまで辿り着いたのですね・・。よくそこまで調べましたね。」

少し、悲しそうな表情を見せた菫と倉本は目を見合わせて相槌を打った。

驚いて固まった様子の菫と倉本に、にやっと笑った慧がこそっと2人だけに聞こえる声で何かを呟いた。

2人は顔を見合わせて、何とも言えない顔で慧を見つめる。

「それでは、失礼します。お2人とも逃げるのなら・・お早くお願いしますね。」

爽やかに笑った慧に、菫は深く頷いた。

倉本は他の3人も一緒に付き従えて、裏のガレージに停めてある菫専用の車へと誘導する。

4人の影が見えなくなるまで、椅子から静かに見送っていた。

すっかり誰もいなくなった庭園の椅子に座り、茜色に染まった空を見て菫が呟いた。

「聖人、貴方の望んだ未来を、・・きっと彼なら叶えるでしょうね。
美桜も凄い男に惚れこまれたのね。
自由におなりなさい、美桜・・・。」

嬉しそうに微笑んだ菫は、美しく手入れをされた庭園を背に屋敷へと戻っていった。

クローゼットに収納してある数々の着物を吹っ切れた表情で次々に棄てていく。

粛々と大きなトランクへ荷造りを始めた彼女の動向を、使用人は誰一人として知らなかった。


駅のロータリーに、大きな黒塗りの車が着けられた。

「お嬢様、皆さま・・。どうか、お気をつけてお帰り下さいませ。」

「じゃあ、私と寛貴は座席と、食事の用意しとくね!ゆっくり話して来てね。」

バタンと降り立った咲は、寛貴の手を引っ張ると慌ただしく降りる。

先輩、いつも神対応すぎです・・!

気を使える素晴らしい大人の2人には、後輩の私達は感謝の言葉しかないのだった。

執事の倉本は、車から降りた私達に深々と頭を下げた。

「倉本・・。貴方もお元気で。」

私は、幼い頃から優しく時には厳しく見守ってくれた倉本に心から感謝した。

「お嬢様どうか、お幸せにおなりください。菫様は、ずっと自分の幸せを犠牲にして貴方や聖人様の為に耐えておいででした。二条様と末永くお幸せに。」

私は、弾かれたように顔を上げ壮年の父よりも長い時間を共にした執事を見上げた。

「倉本?どうして、お前がそんな事を言うの?」

「菫様のお気持ちは、私の願いと同じでございます。
お嬢様は、山科の呪縛から解き放たれ自由になるべきです。私も山科の家を辞す覚悟が出来ました。
貴方は、氷のような山科の家の中で、誰よりも明るく、お優しいお方でした。
幸せになるべき御方なのです、美桜様は・・。」

精悍な顔で、立ち姿勢の美しい執事の白髪交じりの髪は、彼の苦労が偲ばれた。

ポロリと私の頬に涙が伝う。

刻まれた皺と、優しそうな瞳に胸が震える。
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