好きです、が浮かんでも
「あれ、先生、何だかいい匂いしますね」


朱を入れてもらいに真横にしゃがんだとき、先生からふわりといい香りがした。


「ほんと? よかった」

「シャンプー変えたんですか?」


先生からいい匂いがするなんて珍しい、とか失礼なことを考えていたら——


「いや、コロンをね、奥さんからもらったんだ」


ひどいカウンターをくらった。


おくさん。おくさん。


……嘘。


でも、だって、指輪してないのに。してなかったのに。

今も、薬指があいてるのに。


「ご結婚、されたんですか」


おめでとうございます、と慌てて笑顔を作る。


指輪は汚れないように置いてきたらしい。


先生は墨の扱いに慣れているから、大抵手を汚さない。

利き手の右手も汚さないのに、まして左手なんて滅多に汚さないはず。


……それでも置いてきたんだ。汚しちゃうかもって心配するくらい、大事なんだ。


幸せそうな照れた笑い顔が、何よりの証拠だった。


……期待はしていなかったはずだった。


ただ、好きだなあ、とひたむきに思っていた。


でも、私は何も分かっていなかった。

そのひたむきさは決して報われないことも、まして好きだと言えない可能性があることさえも、ちっとも分かっていなかったのだ。


教室で、家で、先生からもらった墨を出して練習する度に、どうしようもなくムスクの香りを思い出す。


真っさらなのに、もうあいていない節の高い薬指を、ことさらに思い出す。
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