クールな彼のワケあり子育て事情~新米パパは甘々な愛妻家でした~
私は自分の母親を思い浮かべた。
母の爪もきれいだった。彼女はネイルサロンに私を連れていくこともあって、私はいつも、死ぬほど退屈しながら、母とネイリストのおしゃべりが終わるのを待った。
"一概には言えない"。これに尽きる。
何事もそうであるのに、こと"母親"については、誰しもが"こうあるべき"と一家言持つ資格があるような気になってしまうのはなぜなのか。その大半が、ただの思い込みと押しつけと、単なる自分の好き嫌いだったりするのに。
「お母さんのこと考えてますね」
「はい」
私の中の、母の愛というもののイメージは、容器に張った水だった。傾ければ簡単に一方が深くなり、一方が浅くなる。
本当にそう?
ここに来てようやく、そこに懐疑的になる自分が現れた。
愛は一か所にしか存在できないと、誰が決めたんだ。
総量は決まっていて、決して増えることはないと、誰が言ったんだ。
与える対象が増えれば個々の量が減る? そんなこと、自分の経験を振り返ってみても、あるはずないとすぐわかるのに、どうして今まで、母子の愛情に関してだけ、その点に無自覚でいられたんだろう。
「母はね、私に言わせれば減点されても仕方ないくらい華美だったと思います。でもたとえば彼女がくたくたの服を着るようになったとして、じゃあそれで私が満たされたかというと」
「お母さんは、自分をきれいに保つことでエネルギーを充填するタイプの人なんじゃないですか。そういう人、いますよ」
そうなんだろう。
私も女だから、ほんの少し、それはわかる。
「会ってみたいですね、エリカ先生のお母さん」
有馬さんて、曲者好きなんだろうか。
白い息を散らして笑う横顔を、そういえばこの人の交友関係なんて全然知らないなと思いながら眺めた。
「今日、すみません、急に誘い出して。大丈夫でしたか」
「帰ったら母の追及に遭うでしょうが、適当に逃げます」
実家で年越ししていたところに、有馬さんから『初詣に行きませんか』と電話が来たのだ。
有馬さんたちは、おばあちゃんのお兄さんの家に親戚一同で集まり、新年を迎えていたらしい。律己くんの存在は喜ばれ、誰かしらが面倒を見ていてくれるので、出歩こうと考えついたんだそうだ。
母の爪もきれいだった。彼女はネイルサロンに私を連れていくこともあって、私はいつも、死ぬほど退屈しながら、母とネイリストのおしゃべりが終わるのを待った。
"一概には言えない"。これに尽きる。
何事もそうであるのに、こと"母親"については、誰しもが"こうあるべき"と一家言持つ資格があるような気になってしまうのはなぜなのか。その大半が、ただの思い込みと押しつけと、単なる自分の好き嫌いだったりするのに。
「お母さんのこと考えてますね」
「はい」
私の中の、母の愛というもののイメージは、容器に張った水だった。傾ければ簡単に一方が深くなり、一方が浅くなる。
本当にそう?
ここに来てようやく、そこに懐疑的になる自分が現れた。
愛は一か所にしか存在できないと、誰が決めたんだ。
総量は決まっていて、決して増えることはないと、誰が言ったんだ。
与える対象が増えれば個々の量が減る? そんなこと、自分の経験を振り返ってみても、あるはずないとすぐわかるのに、どうして今まで、母子の愛情に関してだけ、その点に無自覚でいられたんだろう。
「母はね、私に言わせれば減点されても仕方ないくらい華美だったと思います。でもたとえば彼女がくたくたの服を着るようになったとして、じゃあそれで私が満たされたかというと」
「お母さんは、自分をきれいに保つことでエネルギーを充填するタイプの人なんじゃないですか。そういう人、いますよ」
そうなんだろう。
私も女だから、ほんの少し、それはわかる。
「会ってみたいですね、エリカ先生のお母さん」
有馬さんて、曲者好きなんだろうか。
白い息を散らして笑う横顔を、そういえばこの人の交友関係なんて全然知らないなと思いながら眺めた。
「今日、すみません、急に誘い出して。大丈夫でしたか」
「帰ったら母の追及に遭うでしょうが、適当に逃げます」
実家で年越ししていたところに、有馬さんから『初詣に行きませんか』と電話が来たのだ。
有馬さんたちは、おばあちゃんのお兄さんの家に親戚一同で集まり、新年を迎えていたらしい。律己くんの存在は喜ばれ、誰かしらが面倒を見ていてくれるので、出歩こうと考えついたんだそうだ。