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絶叫マシーンで落ちる時みたいなぞわっとしたものが背中を通った。
びっくりして、つい離れてしまう。

「……あ、ごめん」

ここでやめられたら困るので、あわててもう一度唇をつける。
それはもう乾いて冷たいものではなく、とろりと馴染むあたたかみを持っていた。
キスを深めると、熱を分け合うように受け入れてくれる。
私から一方的に始めたキスなのに、湊くんの手は私の背中と後頭部に回っていて、求められているような錯覚に陥る。
私もシャツの襟を掴んでいた右手をはずし、髪の中に差し入れると、サラサラと心地よい感触が指の間を抜けていった。
もっと、もっと、と思っても、キスにできることなんてたかが知れていて、指先まで湊くんで満たすには全然足りない。
心の中の渇望は、むしろどんどん大きくなっていくようだった。
こんなボランティアではなく、湊くんの本気のキスはどんな風なのだろうと思ったとき、唐突に唇は離れた。

余韻に染まる目で見上げ、もう一度近づこうとしたのに、湊くんは逃れるように顔を逸らして、デスクに放り投げてあったメガネをかけた。
突然元の同僚に戻ってしまった湊くんを前に、私はなすすべがない。
名残を惜しむ身体を引き剥がし、そろりとその膝を降りた。

「えっと、ありがとうございました」

湊くんはパソコンの方を向いたまま、左手の中指でカチャッとメガネを直した。

「こちらこそ、ごちそうさまでした」

少しだけ待ってみたけれど、それ以上何か言いそうもなかったので、私は挨拶もせずにフラフラと会社を出た。

居酒屋を出た後でもしっかりしていた足取りは覚束なく、何百回と通っているはずの通りさえ違うもののように見える。
ずいぶん深まった春の夜は、私の体温を下げるほどの冷気を持っていなかった。

何気なく手をやった髪の毛が後頭部だけ乱れている。
その理由に思い至って、残っているはずのない熱と指の感触を探す。
けれど、感じるのは少し傷んだ髪の乾いた手触りだけ。

自宅マンションのドアをくぐってしまうと、玄関マットの上に膝から崩れ落ちて動けなくなった。
飲み過ぎたならウコンを飲むけど、身体の中で渦巻く得体の知れない何かを、消化する方法がわからない。

取りに戻ったはずの携帯電話を忘れたことには、寝る前に気づいた。
けれど、元彼のことをすっかり忘れていたことには、気づきもしなかった。
上書きどころか、きれいさっぱり洗い流されていた。

これが湊くんとのたった一度のキスの思い出。

その夜私はあんなに酔っていたにも関わらず全然眠れなくて、何度も指で唇を触った。
目を閉じれば湊くんの顔が浮かぶから眠れない。

見慣れたはずのちょっと不機嫌そうな無表情が、私の呼吸を浅くする。
あくまで戯れだったはずのキスは、これまでの経験を全部忘れるくらいに気持ちよかった。
こんな気持ちで次に湊くんに会うときは、いったいどいういう顔をしたらいいのだろう。
出勤すれば顔を合わせる存在だから、会いたいなんて思ったことはない。
そもそもそんなことを考える相手ではなかった。
今は、会いたいのか会いたくないのか、どっちなのかわからない。
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