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「すべてを捨てなければプロになれない、とは言わない。でも何かを犠牲にしなければならないことも確かなんだよ」
「私がその犠牲?」
「『犠牲にしないため』かな」
「どう違うんですか?」
「デートしてるのに頭の中は将棋のことばっかり考えてる、電話やメールをする時間すら惜しい。そういう男と付き合って、傷つかない人はいないでしょう?」
平気だ、とは言えない。
いつも自分より優先するものを抱えた人と付き合うことは、心が擦り減る。
それには相応の覚悟が必要になるから。
やっぱりあの左手は、私を拒むものなのだ。
黙ってしまった私に、前郷さんはさみしそうに笑った。
「俺も奥さんをたくさん傷つけた人間だから、おすすめしない」
「じゃあ、付き合わないのは私のためだって言うんですか?」
冗談じゃないって気持ちがこもって、口調がきつくなる。
「今井さんのためってわけじゃなくて、単に時期が悪いとしか言えないな」
「時期?」
「誰だって人生を決める一大事に、恋愛を優先できないでしょう?」
お茶を一口飲んだ前郷さんは、おわ、これ出涸らし、と慌てて茶葉を捨てる。
「就活中は忙しい、ってことと同じですか?」
「うーん、俺就活ってしたことないから、そっちはわからないけど、単純に時間がないんだ。プロなら一日中だって将棋の研究をしていられるけど、湊は仕事もしていたからどうしたって遅れてる。今ある時間のすべてを将棋につぎこんでも足りない。今の湊には、今井さんと向き合う時間はないんだ」
「私って、そんなに足手まといでしょうか?」
納得しない私に苛立ったように、新しく淹れてくれた煎茶がゴトッと強めに置かれた。
「じゃあ今井さん、会社を辞めた後の湊が、どんな生活してるか知ってる?」
連絡さえ取れないのだから知るはずもなく、不満を隠さず首を振った。
「朝起きるのは多分八時とか九時くらいかな? 十時にはネットで対局してるよ。深夜までぶっ通しで十五時間以上。倒れて寝る」
「……それ以外の日は?」
「月に二回はプロ棋士の研究会に出てるし、AIを使って研究している日もある。だけど基本的には実戦重視。ネットって言っても、アマの強豪だけじゃなくて奨励会員やプロ棋士なんかもいるサイトで、一日に二十局とか三十局とか指してるんだ。寝る間も食べる時間も惜しんで限界まで」