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『仕事のために恋愛を我慢しなきゃいけないような仕事なんてあるのかな?』

『そんなもん、あるわけないじゃないですか!』

いつか夏歩ちゃんとそんなやりとりをしたけど、あるのだ、そんなことが本当に。

「今井さんはフリークラスがどんなところか知ってる?」

「十年で引退、ですか?」

将棋の棋士は、名人を頂点としてA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組というピラミッド状のクラスに分けられている。
通常三段リーグを抜けて四段に昇段した棋士はC級2組で、トップのA級棋士は170人いる棋士のうち10人しか在籍できない。
そしてそのA級の中で一年間リーグ戦をして、トップだった一人が、名人に挑戦できるシステムになっている。

しかしフリークラスというのは、そのC級2組より下位にあって、順位戦への参戦が認められていないそうだ(順位戦以外の棋戦には参加可能)。
C級2組にいる成績下位の棋士には降級点が与えられ、それを三回取るとフリークラスに落とされる。
また、人によっては自ら宣言してフリークラスに転出する場合もある。
ただそれは年齢的に対局が厳しくなってきたような人がほとんどで、引退までの猶予のようなもの。
宣言して転出した棋士は別として、フリークラスの棋士は、十年以内にC級2組に上がれなければ引退となってしまうのだ。
つまり、フリークラスというのは、棋士であって棋士の枠外にいるような存在らしい。
湊くんが目指しているのは、そういう場所だ。

「そう。それに対局料も安い。具体的にはわからないけど、もし全敗した場合、年収は200万には届かないんじゃないかな。100万程度かも。それに加えて十年以内に上がれなければ無職」

今の会社は大手ではないし、大層なお給料を貰っているわけでもない。
だけどさすがに年収200万よりは多い。
湊くんはそれを捨てて夢を追っていた。

フリークラスからC級2組に上がるための規定にはいくつかある。

①年度の通算成績が六割以上
②直近三十局以上の成績が六割五分以上
③年間対局数が三十局程度
④全棋士参加棋戦で優勝もしくはタイトル戦挑戦

これらはつまるところ、プロの棋戦で毎回二勝一敗の成績を収めれば一年でクリアできる計算らしいのだけど、トッププロならまだしも、フリークラスの棋士がそれを達成することは非常に難しいのだとか。

「湊はあなたとのことを真剣に考えたんだと思います。あなたを抱えて将棋は選べないし、巻き込むと不幸にしかねない」

湊くんが好きだから側にいたいと思う。
だけど湊くんも同じ気持ちだったから、拒絶されたらしい。

「今でも思う。もし俺が奥さんと付き合ってなかったら、プロ棋士になれていたんじゃないかって。単に俺の実力不足なんだけど、ときどきはどうしてもそう思ってしまうんだ。そういう厄介な感情を、湊とあなたの間には残して欲しくない」

無意識に薬指の指輪に触れる前郷さんは、とても奥様を愛しているのだと思う。
それでもそんな複雑な感情を抱えている。
私たちの世界ではごく当たり前の「好きだから一緒にいたい」が、この人たちには通用しない。
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