gift
帰り際、今の君にはピッタリ、と半強制的に扇子を売りつけられた。
パリッとした真新しい白い扇子には見事な筆致で『直進』と書かれてある。
肌に張りつく暑さにはちょうどいいと思って、早速扇いでみたけれど、ぬるい空気が顔を打つだけだった。
もはや酢飯を作る時ぐらいしか使わない(作らないけど)だろうそれを右手で弄びつつ、左手で教えてもらった番号に電話をかける。
『━━━━━もしもし』
「もしもし、出たね」
『前郷くんと約束したから』
「『今井さんと約束したから』って言って」
沈黙の中にある湊くんの気配を味わいたい気持ちもあるけれど、彼には時間がないらしい。
「将棋のプロになるの?」
『わからない。頑張るけど』
「望みがうすくても、挑戦するんだね」
『できるかどうかわからないことをするのが“挑戦”なんでしょう?』
一片の迷いもない声だった。
わからないことに本気で手を伸ばしてる人は、こんなに強い声をしているのだ。
そんな人を相手に私が言えることなどないのかもしれない。
おざなりに「頑張って」と言うか、「さようなら」と言ってあげることが、一番いいのだろう。
「湊くん」
『ん?』
「好きだよ」
息を呑む音が聞こえた気がした。
「湊くんが後生大事に抱えてる将棋だとか奨励会だとか、私そんなのどうでもいい。勝ったって負けたって私には関係ない」
棋士がよく参詣するという鳩森神社前で言うにははばかられるけれど、本心だった。
「私は湊くんが将棋のプロ棋士だろうが、社長の恋人だろうが、実はカツラだろうが、湊くんが好き」
『カツラじゃないよ』
そこだけハッキリ反論された。どうやら今のところすべて地毛らしい。
「もう邪魔したりしないから、一言だけ『待ってて』って言って」
『……そんなこと言えない』
「じゃあ、はっきり『きらいだ』って言って」
『…………』
「将棋に集中したいんでしょう? ほらほらさっさと言ってしまえ。5秒前、4、3、2、いーーーーち」
『言えない』
心臓がヒヤリとして一瞬暑さも忘れた。
だけど続く言葉ですぐに全身が熱くなる。
『棋士になれるかわからないし、『待ってて』とは言えない。他に好きな人ができたら、そっちに行っても仕方ないと思ってる。でも、これが終わったら、会いに行く』
本当は少し時間切れだったし、要求した返事とは違ったけど、悪くないからオマケしてあげることにした。
「わかった。じゃあね」
電話を切ると持つ手が少しだけ震えていた。
膝の力が抜けて歩けなくなったので、抱えるようにしゃがみ込む。
「はあああ、よかった。『きらい』なんて言われなくて」
境内の木々から、こだまし合うように蝉の鳴き声がする。
膝も腕も汗でベタベタで、そこにこめかみを伝った汗が落ちた。
勝手に待ってる。
だから早く会いに来て。