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対局は十時開始だけど、大盤解説会は十四時から始まる。
それでも脚が重くて、将棋会館に着く頃には十五時を過ぎていた。
会場である二階会議室には、予想外にたくさんの人が詰めかけていて、用意されたパイプイスは空いておらず、後ろに立って会場を眺める。
大盤の駒を取ったり動かしたりしつつ、男性棋士一人と聞き手の女流棋士が解説をしていた。
男性棋士の隣にはモニターがあって、そこに実際の盤面の映像が映し出されている。
聞いてもわからない解説は聞き流して、モニター画面を凝視していると、画面の上から伸びてきた手が駒台(取った駒を置いておく小さな台)の上の歩を掴んだ。
駒台は対局者の右側にある。
それは左利きの棋士であっても同じらしい。
その手は、左側から自分の身体を横切るようにして駒台に伸びた。
あの手は、湊くんのものだ。
ピッと伸ばした中指と人差し指が、パチッと駒を置く。
王様の正面を守る金の前に、歩が打ち込まれたのだ。
何もわからない私にも、湊くんが攻め込んでいるのだとわかる。
駒を掴む指も、指した後の手の形も、とてもうつくしい。
同時に、紙を切ったりキーボードを叩いたりしているときより自然体だった。
滑らかにスイスイ動く手は、湊くんにとって、呼吸するのと同じくらい馴染んだ仕草なのだ。
つるつるで白くて、ほんのりピンク色の手。
私が知っているどんな手よりも「生きている」手。
あの手は駒を持つための手だった。
「今、どうなっているんですか?」
解説は具体的な駒の動きを示すばかりで、現状勝っているのか負けているのか全然わからない。
だから、隣に座っているおじさんに聞いた。
「完全に浅井四段のペースだね」
おじさんは大盤から目を離さず答えた。
序盤からわずかにリードされ、そのまま差を広げられているという。
画面の中の湊くんはいつものように無表情に見えるけれど、どこか苦しそうに背中を丸めて、右手で扇子をパチパチ開いたり閉じたりくり返す。
しばらくするとそれを投げ出すように放して、一度お茶を飲み、今度は前のめりに盤を睨んで、前後にゆらゆら身体を揺らしてリズムをとっていた。