gift
今話しかけてもきっと聞こえない。
今まで見たことがないほど圧倒的に集中している。
それでも湊くんには、王様を追いつめる道筋が見えていないのだ。

ほとんど動きはないのに、湊くんのもがいている気持ちが伝わってくる。
一人三時間の持ち時間はあまりに長いと思ったけれど、こうしてみると全然足りない。
しかも何時間考えても、もう打開できる手はないのかもしれない。

部屋に充満する人の体温すら窮屈に感じてしまう。
空っぽのはずの胃から何かせり上がってきそうで、慌てて会場を出た。

部屋の外は涼しく感じ、気持ちも少し落ち着いた。
だからと言って会場に戻る気にも、さっさと帰る気持ちにもなれない。

道場は平日だからか空席もみられたが、そのうちに小学生もちらほら現れ、手つきだけは一人前に将棋を指している。
その姿に、見たことないはずの幼い湊くんの姿を重ねた。
この前聞いた社長の言葉が蘇る。

『奨励会に入るような子はね、幼い頃に将棋と出会って、寝ても覚めても将棋浸けの毎日を過ごすんだよ。朝起きて将棋、学校でも将棋、帰ったら道場に通って、家でも寝るまで将棋。まるで血にすり込むみたいにね。湊くんもそうだったよ』

道場を出てまたフラフラしていると、自動販売機の前に見慣れた背中を発見した。
ペットボトルのお茶を買って、戻ろうとして一度立ち止まり、それをほっぺたに当てている。
そうして少しの間、じっと目を閉じていた。

対局室に戻っていく、少し疲れた、けれど凛とした背中を見送ってわかった。
湊くんはプロの世界に「入ろうとしている」のだと思っていたけれど違った。
湊くんは、将棋の世界に「戻ろうとしている」のだ。

プロ棋士の中には、運転中つい将棋のことを考えてしまって事故を起こす人がいるという。
だから運転を控える棋士も多いのだそう。
あの休日出勤のとき、湊くんが観ていたテレビも将棋番組だったのだ。
湊くんは浪人生ではないし、会社員でもなかった。
湊くんはずっとずっと棋士だった。

その日、湊くんは負けた。
あのまま差をどんどん広げられて、いいところもなく短手数で投了に追い込まれたらしい。
まだ二勝一敗とリードしているのに、背中に当たる風がひやりと冷たかった。
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