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「完全に逆転しましたね。後手がいいです」

先手、後手と言わず名前で言って欲しい。
素人には素早く変換できない。

「すみません、後手ってどっちのことでしたっけ?」

隣に座るおじさんにそっと声を掛けると、驚いたような顔をされた。

「佐倉四段だよ。あの盤の下から攻めてるのが先手で湊アマ、上から攻めてるのが後手の佐倉四段。▲が先手、△が後手ね。さっきまでずっと湊アマが優勢だったんだけど、一手間違ったところ」

「ありがとうございます」

こんな基本情報も知らずに来たことを、恥ずかしいと思う余裕もなかった。だって湊くんは負けそうなのだ。悩んだままの湊くんに記録係が声を掛ける。

『湊アマ、持ち時間を使い切りました。これより一手一分以内にお願いします』

盤から少し離れ、背筋を伸ばして眺める佐倉四段に対して、湊くんは膝に両手をついて、うなだれるように盤面を睨んでいる。

『30秒ー』

湊くんは動かない。

『40秒ー』

ようやく身体を起こして、それでも手は膝に置いたまま考え続けている。

『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』

あと3秒というところで駒台の上の銀を掴んで、急いでパチッと相手陣に打った。
しかし佐倉四段はその銀を無視して、一呼吸おいてゆったりと飛車を走らせる。

『30秒ー』

湊くんは盤を見たまま、目の前に投げ出してある扇子を指先で弄んでいる。

『40秒ー』

盤は見ているものの、さっきまでと違って深く思考に沈んでいるようには見えない。
ただひたすらに苦しそうだ。

『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』

さっきまでのうつくしい動きではなく、投げ出すような乱暴さで角を成り込ませる。
けれどそれも無視されて、逆に湊くんの陣地に桂馬が成り込まれた。

「後手(佐倉四段)は、自玉の詰みはないと思ってるんでしょうね」

「ここで寄せ切れば(王を直接攻めて詰ましに行くこと)決まりそうですね」

どんなに湊くんが攻め込んでも、その刃は届かないらしい。
解説の人たちも言外に投了を匂わせるし、湊くん自身もそれをわかっている。

それでも湊くんは投了できずにいる。
静かに顔をさすり、メガネを直し、そっとため息を吐く。
ため息にはたくさんの感情が含まれているように見えた。
それを吐き出して尚、自分に対して向けられた強い怒りが、湊くんの内側を食い荒らしている。
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