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『30秒ー』
俯いていて、もう盤は見ていない。
『40秒ー』
湊くんは動かない。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、8、』
うなだれながら自玉をひとつ隣に逃がした。
佐倉四段が間髪入れずに成桂で王手をかける。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』
玉で成桂を取る。
けれど佐倉四段は、すぐに銀で再び王手をかけてきた。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、』
投了できない。
悔しくて。
負けたくなくて。
会場全体の空気も、痛々しいものを見つめる苦しさで重くなっていた。
『いっそ惨敗の方がいい』と言われるように、勝っていた将棋を一手間違えて落とした傷は深い。
しかもそれは夢がすり抜けて行ったことと同じ。
子どもがやるような将棋でなければ、玉を取られるまで指したりしない。
特にプロは、うつくしい形の投了図をよしとするらしい。
だから、自玉が詰んでしまったとわかったら、どこかで頭を下げなければならない。
自分で負けを認めなければいけないのだ。
もう負けは決まっているのに、湊くんは投了できず、暗い顔のまますっと横に玉をずらして逃がした。
やぶれかぶれで走らせた飛車もあっさり取られ、その様子を見つめながら、湊くんはペットボトルの蓋を空けコップに注いだ。
優雅なくらいゆっくりとお茶を飲む。
そして、また一手横に玉を逃がした。
その逃げ道を塞ぐように銀が打たれる。
『30秒ー』
コップには注がず、直接ペットボトルをあおる。
『40秒ー』
少し乱暴にペットボトルを置いて、自分の手を見ている。
平凡だ、と言った左手を。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』
『負けました』
と、言ったと思う。
それはわずかに口を動かしただけで、音にはなっていなかった。
けれど、盤に軽く手を触れるようにして一瞬深く頭を下げ、続いて佐倉四段もお辞儀をしたので、湊くんが投了したのだとわかった。
その様子を見ていた女流棋士が、労るように遠慮がちな声で言った。
「この銀を見て、湊アマ投了となりました。では先生、投了図以下の解説をお願いします」
胃の奥からやり場のない怒りのようなものが湧いてきた。
肺が押し潰されて小さくなったように、呼吸が苦しい。
本当に湊くんは負けてしまったのだろうか。
これは本当に現実なのだろうか。
ほんの少しでも時間を巻き戻すことはできないのだろうか。
悔しくて悔しくて、静かに盤面を見つめる佐倉四段が憎らしい。
今日初めて見た人で、彼のことは何も知らないのに、一瞬で大きらいになった。
でも同時に、そして不謹慎かもしれないけれど、自分の無力さを受け入れて負けを認める湊くんの姿に心を打たれた。
将棋は、人間同士の戦いは、本当に恐ろしい。
そして将棋も、湊くんも、本当に格好よかった。