gift
悲しみや悔しさだけではない涙がこぼれて、バッグからハンカチを出そうとする間にも床に数滴落ちた。
目に手を当てて押さえても、涙は滑り落ちて膝やパイプイスや床を濡らす。
それを見ていた隣のおじさんが、使いかけでシワシワのポケットティッシュを渡してくれた。

「すみません。ありがとうございます」

涙を吸い取って鼻もかむ。

「将棋って、なんかすごいですね」

私の漠然とした言葉に、おじさんはうれしそうにうなずいた。

「中身を知ればもっと楽しいよ。棋士の性格なんかも指し手に出るから」

「じゃあ、湊くんはどんな感じですか?」

「湊アマは研究熱心で、思い切りよく勝負に出るよね。気持ちがいいから好きなんだ」

このおじさんは湊くんの知り合いではなさそうなのに、将棋だけでファンになれるものらしい。

「私も好きです」

二度と立ち上がれないのではないかと心配になるほど固まっていた湊くんが、気を取り直したように背を伸ばす。
佐倉四段がぼそぼそと何か話しかけて、湊くんは首を振ったり腕組みして深く考えたりしながら答え、盤上の駒をパチパチ動かしている。

「あれ何してるんですか?」

おじさんにもう一度話し掛けると、今度ははっきり驚かれた。

「あんた、感想戦も知らないでここに来たの?」

「将棋をまともに観るのは初めてです」

おじさんは呆れながらも丁寧に説明してくれた。

「将棋の対局は終わったあと、必ず感想戦っていう反省会をするんだよ。一局を振り返って、別の手があったんじゃないかとか、こう指していたらどう指したかとか、お互いに話し合う」

あんなにボロボロの湊くんにそれをさせるのか、と少し腹が立った。
受け答えする湊くんは苦しみに耐えていて、私は胃が痛くて仕方ないのに。

「勝った方はいいかもしれないけど、負けた方は辛いじゃないですか。なんで泣きたいのを我慢してまでそんなことするんですか?」

「強くなりたいからだよ。相手としっかり振り返ることで、指した将棋への理解が深まる。何より勝負だから勝ち負けは存在するけど、それでもお互いに将棋っていう深い世界を追求する同士だから。だからどんなに辛くてもちゃんと感想戦をするのが、将棋を志す者の義務だと思うよ」

私がトランプをやっているのと、わけが違うのだと痛感した。
勝ったか負けたか、それがすべてだと思っていたけれど、終わった対局だからと捨てずに、大事に身につけて行くものらしい。

「そうなんですね。ありがとうございました」

負けた、って泣くばかりでは強くなれない。
棋士は負けた瞬間から、次に向かって進む生き物なのだ。

だったら湊くんはいつ泣くのだろう。
立ち止まって悔しさを噛みしめたいときだってあるはずなのに。
怒りを吐き出したい時だってあるはずなのに。

身体の中を渦巻くやるせない感情は収まらず、その夜私はなかなか寝付けなかった。
寝返りをくり返すベッドの中で湊くんを想う。
眠れない長い夜をどうやって過ごしているのだろう。
この内側を焼き尽くすような悔しさや悲しみを、耐え抜く術まで身につけていると言うのだろうか。
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