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「湊さん、踏み込みが良くなりましたよね。寄せ切るつもりで大駒切っただけあります」

有坂さんはそう言って、意味ありげに私を見た。
それを受けて、折笠さんの方は不満そうだ。

「俺だったら両取りするけどな。棋士はもろもろ背負って将棋を指す職業だから、彼女や世間の期待くらいでつぶれるようなら、諦めた方がいい」

厳しいことをサラッという彼は、事実それを背負っているのだろう。
有坂さんの方はヘラヘラと笑っている。

「みんながみんな折笠さんみたいにはできないですよ。いやだな、天才は」

「王座挑戦者がよく言う」

「負けましたけどね!」

有坂さんはタイトルに挑戦するほどのトップ棋士らしい。
ピラミッドの頂点。
湊くんはそのピラミッドに入ることすらできずにいるのに。

ハンドクリームを塗ったくらいでは乾燥を防げない二月にあって、二人の手は湊くんと同じようにつるりときれいだった。
これが「神様に選ばれた手」なのだろうか。
私の目には、特別なものには見えないのに。

ようやく画面に現れた湊くんは、黒いスーツ姿で白地に細い青のストライプが入ったシャツを着ていた。
スーツ姿なんて毎日のように見ていたはずなのに、会社で見るよりずっと凛々しく見える。
左側に置かれた脇息の位置をわずかに調整して、少し盤面を見つめてから、繊細な指が飛車を隣のマスにずらす。

「冷静ー。昔の湊さんなら熱くなって突っ込んだのに」

『昔の湊さん』ということは、湊くんの奨励会時代を知っているのだろう、と考えて、前郷さんと湊くんとのやりとりを思い出した。

「あの、有坂さんって、湊くんに『借り』があるって方ですか?」

「もしかして前郷さんですか? あの人、口軽いな」

「すみません。私が聞いてしまっただけなんです。言いづらいことなら結構です」

口では不満そうなことを言ったのに、特にこだわった様子もなく有坂さんは話し出した。

「俺と湊さんって、三段リーグで一緒だったんです。俺が十六歳でリーグ入りしたとき、湊さんは二十三か二十四歳だったかな? 昇段争いが明確になってくる頃に湊さんと当たって、それで一分将棋になったんです。一分将棋はわかります?」

最近見るようになって知ったのでうなずく。
持ち時間がなくなると、そこからは一手一分以内に指さなければならない。
それを過ぎてしまえば負け。
だから棋士はギリギリのギリギリまで考えて先を読んで、最後の二~三秒で指すような将棋を終局まで続ける。

「一分将棋って持ち時間一分だからトイレにも行けないんだけど、そこは人間だからどうしようもないときってあるでしょう? 俺は我慢して我慢して、我慢できなくなって、指してから走ってトイレに行ったんです。もちろん一分で帰ってくるつもりで。だけど結果的に一分では帰って来られなかった」

湊くんがすぐに指して、有坂さんに手番が移ったとしても、一分以内に帰ってくればギリギリ間に合う。
けれど、一分以上かかってしまえば、時間切れで負けてしまう危険性もある。
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