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「今日の湊さん、いいですね」
有坂さんの言葉を聞いて私はしゃがみ込む。
将棋がこんなにハラハラするなんて思わなかった。
「もういや……。心臓に悪い……」
うずくまったまま動こうとしない私の腕を折笠さんが掴み、しっかりしてください、と引っ張って立たせる。
「勝負はまだまだこれからです。フリークラスを抜けるのは編入試験より楽じゃない」
ホッとしていた気持ちに水を差すように、折笠さんは厳しい言葉を発したけれど、裏腹に口元をゆるめる。
有坂さんが笑った顔のまま私に説明してくれた。
「湊さん、優勢ですよ」
「え! そうなんですか?」
私の目には、湊くんは攻められてばかりに見える。
「はい。湊さんの玉に詰みはありません。正確に受けて反撃したらほぼ決まりです。ただし、正確に受けたら、ですけど」
画面の中の湊くんが、ポケットからハンカチを取り出した。
それはあまりにも目立つエメラルドグリーン。
小さ過ぎて確認できないけれど、あの水玉はすべてパンダのはずだ。
『ここぞ、というときのために大切にしまっておく』
湊くんはハンカチでゆっくりと手のひらの汗をぬぐって、扇子の隣に置いた。
「コンピューターなら詰みを見つけたら間違わないけど、人間は違います。何度も何度も手順を確認して指したはずなのに、間違うことはよくあるんです。そしてその一手で形勢が逆転することもよくある。今とても大事な局面ですよ」
第四局の湊くんがそうだった。
たった一手。
きっとその一手を永遠に後悔し続ける棋士もいるのだろう。
湊くんはその恐ろしさをよく知っている。
だから『ここぞ』のときだ。
「ほら、行った」
有坂さんの声と同時に、湊くんが掴んだ歩をクルリと裏返して敵陣に成り込んだ。
「金」という駒は相手玉を詰ますときには最強らしい。
局面によっては、銀が十枚あっても詰まない玉を、金一枚で詰ますことができるほど。
と金は歩だけど、金と同じ動きができる上に、取られてもさほど痛くない。
『と金は金以上』という言葉もあるほどの強力な駒だ。
いつの間にか迫っていた歩が、急に牙を剥いたように見える。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』
西牟田四段は、ラスト三秒で湊くんの作ったと金を取った。
すると、また別の歩を湊くんは成り込ませる。
平凡な手で、自分が信じた一手を。
「歩だけで詰めろ(このまま相手が対策を講じなければ、詰ますことができる手)かけた」
「あはは! 湊さん格好いい」