お茶にしましょうか
「江波くんではありませんか。珍しいですね、こちらの棟にいらっしゃるなんて!」
「こ…こんにちは」
俺の心配していた深海魚の君は、見るからに元気そうであった。
いつもと変わらぬ様子であり、優しげな微笑みで、俺を見上げてくる。
これには、拍子抜けしてしまったではないか。
隠しきれない程、何かに落ち込んでいたはずの彼女は、何処へ行ってしまったのやら、そう思える程、彼女はもう元気そうであった。
深海魚の君、彼女はいつでも強い精神を持ち合わせている。
俺は彼女を、本当に尊敬しているのだ。
俺は、思い出せない彼女の名を、ますます知りたくなった。
「あの、すみません。今、時間はありますか?」
「申し訳ありません。理科室へ移動しなければならないので、あまりあるとは言えません。何かご用件がございましたか?」
「いや、あの、大丈夫です。すみません」
少し落胆して、先程までの勢いが一気に衰える。
そうか、移動教室か。
それでは、仕様がない。
彼女が胸に抱えていた教科書に、ふと目をやった。
その教科書の下の際の方に、名が書かれていた。
彼女の名が書かれている。
こればかりは、幸運だった。
俺は、せめて、と最後に台詞を置いていくことにした。
「あの、何か悩み事はとかあれば、聞くんで…佐々木さん」
「…え」
「え?」
話の締めにと、なるべく格好のつく様な台詞を言ったつもりだったのだが、相手の反応が何やらおかしい。
「あの、佐々木さん?」
再び、彼女の名を呼んでみた。
すると、彼女は俯き、肩を震わせている。
彼女の心情を察するにも、わけがわからず、俺は慌てふためいていた。
「ち、違います…」
今にも消え入ってしまいそうな、か細く、小さな声が聞こえてきた。
「違います。私、佐々木ではありません…」
「え…でも、教科書に…」
「この教科書は、隣の組の子からお借りした物です」
「なっ…!」
なんとも紛らわしいことだ。
俺は知らず知らずのうちに、人を間違えた名で、呼び続けてしまっていた。
何とも失礼なことを、平気な面でしてしまっていた。
すると、深海魚の君は、先程まで俯いていた顔を上げ、瞳を潤ませながら、俺を見つめる。