スノーフレークス
 そう言ってクリスは私を先導して歩き始める。特に断る理由もないので、私はこの唐突な勧誘にのってみることにした。気に入らなかったら今後もう参加しなきゃいいだけのことだし。
 渡り廊下を歩き、階段をのぼり、右に曲がり、左に曲がり……。転校生の私がまだ足を踏み入れていない校舎の一画に、彼らの部室はあった。二階の突き当たりにある視聴覚室の隣に、ESSという札が掛けられた部屋があった。
 クリスが部屋の引き戸を開けると、部屋に注ぐ明るい光が視界に飛び込んでくる。私は思わず窓辺に歩み寄った。窓から大きな木が緑の枝葉を広げているのが見える。
「この部屋は裏庭に面しているんだよ。これは楢の大木で、本校の創立時にここに植樹されたんだ。樹齢は百年を越える」
 傍らでクリスが説明する。庭を見下ろすと、木の葉の間から左斜め下の方に水のきらめきが見える。
「あそこにあるのは池だよ。代々うちの生徒は『問わず語りの池』と呼んでいる」
 クリスが静かな声で説明する。
「問わず語りの池?」
「うん。あの池には逸話がある。昔、本校が旧制中学だった時代に、一人の学生が学年末テストで失敗して落第の危機に瀕していたんだ。その時、彼はあの池のほとりに立って我が身の不幸を嘆いたんだ」
 落第の危機という言葉が私の心に突き刺さる。
「彼は五箇山の奥から親戚の援助を受けて本校に入学してきたから、落第するということはつまり一族の期待を裏切るということになる」
 五箇山というのは岐阜との県境にある合掌造りの集落である。
「思い余った彼は池に身を投げその短い生涯を終えたという話だ。それ以来、丑の刻にあの池のほとりに立つと、こちらが何もきかないのに池の中から何者かが勝手に自分の身の上話を始めるというわけさ。だから『問わず語りの池』と呼ばれている」
「あの池って、溺れるほど深いの?」
 私はたずねる。
「いや。これまで何人もの学生がふざけて飛び込んだことがあったけど、水かさはせいぜい胸の下くらいまでだった。プールみたいなものさ」
「だったら何でその人は……」
「さあね。時によって深さが変わる池みたいだよ。あくまでも噂だけどね」
 窓から一陣の夏風が吹き込み、私の頬を撫でた。残暑が厳しい時節だというに背中が寒くなってきた。
 その時、廊下から生徒の足音が聞こえてきた。
「さ、おやつを食べようか。他の部員もやってきたことだし」
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