スノーフレークス
 私より先を進んでいた澁澤君が懐から数珠を取り出し何やら念仏を唱え始めた。すると母さんは歩みを止め澁澤君の方を振り返った。いつも青白い顔をしている母さんと同じ人物とは思えないほど彼女は安らかな表情を浮かべている。裸足で雪の上を歩いていても全然冷たくなさそうだ。

「日向さん。あなたはどこへ行くのですか」
 澁澤君がたずねる。
「どこに行くのかですって?」
 母さんが不思議な響きのある声で言う。
「私は美しい国へ行くのよ。そこに行けばもう体の痛みや病気の苦しみに悩まされることはないの。そこは温暖で明るくて病気も悲しみもない世界なのよ」
「あなたは自分が今向かおうとしている所が天国だということがわかっているのですか。なるほどそこは素晴らしい場所に違いないでしょうが、一たびそこに行ったらもう旦那さんや娘さんには会えなくなるんですよ」
「光郎さんと葵……」
 澁澤君に問われ、母さんはその柔和な表情を少し崩した。
「家族のことは心配だわ。でも、私の体はもう痛みに持ちこたえられないのよ。私、疲れてしまったの」
「家に戻って療養を再開してはくれませんか。ご家族はあなたがそうしてくれることを切に願っています」
 澁澤君は私がまさに言いたいことを代弁してくれる。
「そんなこと言われても私……」
 母さんは言葉に詰まってうつむいてしまった。母さんの辛そうな顔を見ると私まで辛くなる。
「日向さん。さあ、家に戻りましょう! 家族があなたの帰りを待っていますよ!」
 澁澤君は懸命に諭す。
「母さん! 澁澤君の言うとおりよ! お願い、うちに戻ってきて!」
 私も母さんの魂に呼びかけると母さんは私の存在にも気がついた。
「葵。あなたここで何をしているの?」
「私は母さんを追いかけてきたのよ。母さんにはまだ私たちと一緒にいてほしいの」
 私の言葉を聞いて母さんは切ない表情を浮かべる。
 パジャマ姿の母さんは私たちの説得を受けて方向を転換しようとする。私と澁澤君は固唾を飲んでその行動を見守る。

「引き止めても無駄よ」
 冷たく冴えた声がどこからともなく聞こえた。
< 73 / 85 >

この作品をシェア

pagetop