ヒグラシ
奏楽
「ね、ねえ、本当に大丈夫なの? 仕事まだ残ってるんじゃ……」
3日前にも乗ったばかりの軽ワゴン車の中で、前を見て運転している真剣な横顔に話しかけた。樹は、何でもないことのように言う。
「ああ、それは全然。今日は佳奈ん家だけだし」
「そうなんだ」
樹が残りの仕事を放り出した訳ではないことを知って、ほっと安堵した。
そのまま車は一旦広い道路へ出るが、またすぐ狭い道へと曲がってしまった。
「……どこ、行くの?」
「ん? 着けば分かる」
まるで答えになっていなかったが、私は口答えせずに黙っていた。せっかく会えたのに、些細なことで喧嘩したくなかったからだ。そんな私に「おとなしいな」と樹は笑っている。
だって、もう会えなくなっちゃうしーー。
喉元まで出かかった言葉を、必死で飲み込んだ。こんなまとわりつくような言葉、今更樹に聞かせたくない。
小さく息をついて俯くと、視界に入るシフトレバー。その上に置かれているのは、骨ばっていて大きい、頼りがいのある手だ。