恋の人、愛の人。
休みの日に、私は海に来ていた。勿論一人だ。
早い時間でもないから、今日はゲンには会わないかな…。可愛いから会いたかったな。
陽佑さんに連れて来て貰った場所。
何も考えたくなくて私はまた海を見に来た。ようは問題から逃げてるんだ。
海岸は人が疎らに居た。多分近所の人だと思う。
ぽつぽつとそれぞれがそれぞれの足取りで波打ち際を歩いたり、塀に腰掛けたりしていた。
…静かだ。昼間の真夏のようなはしゃぐ声はしない。夏の終わりの海…。静かな、本当に音のない世界だった。
打ち寄せる波の音さえ溶け込んで、私にはないものとして聞こえない。
…え゙。肘に冷っとする感触がした。
「あら。武下梨薫さん」
あ、…。上から声がした。
「お母様…ゲン…」
階段に座っていた私の肘に触れたのはゲンの鼻だったようだ。しっぽをゆさゆささせていた。
無意識に手を伸ばして体を撫でてみた。よく知らないわんちゃんなのに危険は感じなかったからだ。よくしつけられてると思っていたから。
…綺麗な毛並み…。あなたはとても可愛がられている証拠ね。
「今日は一人?」
「はい」
「…そう。ゲン、お座り」
お母様は私から離れたところに腰を下ろした。
二人の間にゲンが鎮座した。
「梨薫さんはおいくつ?」
「え、あ、はい、32です」
「…そう。三十になった時、何だか体力的な面でガクッと来なかった?こんなに無理が利かなくなったかしらって」
あー、…。
「確かに、ありました。でも何だか、気がつかない内に馴れてしまって、あれ?また無理が出来てるって思いました。元に戻ったって」
「そう。私もそうだった。…何でも馴れって事かな。不思議とまた頑張れてるものね」
「はい」
「四十代も、それなりにいいものよ?若さにしがみつこうとしなければね。自然体で居られる事に納得出来る生き方が出来ていたら…シワだって、身体の衰えだって、受け入れられる。
綺麗で居る事をあまりに作り過ぎては、歳を重ねる度、嫌な気持ちしか起きなくなるでしょ?まだ解らないわね。実際、その年齢になってみないと。
身体は何にもしなければ、重力にも負けちゃうしね?お尻とか…胸とかね」
手で押さえて持ち上げて見せられた。
「あー、…は、い」
そうなって行くのよね。ボチボチと…近づいて来てる。
「…三十代は面倒臭い年齢かもね。若くなくなったって周りから思わされてしまう最初にぶち当たる年齢だから。
気持ちは世の中の物事を知って偉そうになってるし、妙に下の子に先輩ぶる態度も…取りがちだし。…世間一般的によ?
一番素直になれない年齢かも知れないわ…」
んー、上から見たら小憎らしい感じって事かなぁ。強気っていう感じも、色んな事を経験して、どこか自信を持つからかも知れない。話し方だって、偉そうに語ってるって、取られてしまうのかも知れない。…人間性の問題かな。傲慢?
「お邪魔してしまったわね。…さあ、ゲン、行くわよ」
「あ、馨さん、…有り難うございました」
「うん?何もしてないわよ?世間話にもならない話しか」
「でも、有り難うございました」
「そう?また来て?…私の海じゃないけど」
「あ、フフフ。はい、また来ます」
「次は一人じゃないといいわね?」
「あー…、そうですね」
「あ、帰りは?直ぐ帰るの?
朝日もいいけど、太陽が向こうに行ってしまうのを見るのもいいものよ?
日没くらいにタクシー呼んどいてあげるから」
「え、あ、そんな…大丈夫です」