恋の人、愛の人。
就業時間が過ぎた頃、まだ従業員がぽつぽつ残って居る中、部長が現れた。
え?上手く意思の疎通が図れなかったのだろうか。私は部屋に迎えに来て貰うつもりだった。そう思っていた。
「失礼するよ」
部長、と口々に声が上がりざわざわする空気が流れた。
「武下君、帰ろうか」
「あっ」
ゔ、そこは…行こうかくらいにしておいてくれた方がニュアンス的に良いのでは。ざわざわしている中を、お先に失礼しますと声を掛けて退室しようとした。フロアの中に居た部長は私の手を取ってしっかり握った。瞬時に人の息遣いや、普段と違う空気を凄く感じた。
「では失礼するよ」
「お疲れ様でした…」
呆気に取られたように呟く挨拶の声が複数返って来た。
「もう部長…、私の言い方がよくなかったのかも知れませんが、私は部屋に迎えに来て貰うつもりだったんですよ?」
「それは解ってる。駄目だったか?報告する手間が省けるかと思ってな。つき合って噂になるより、先に知られていた方が梨薫もいいだろうと思って」
すたすたと急ぎ足でエレベーターの方へ向かっていた。
「部長、私まだ、着替えがまだ…」
「そのまま帰ればいい。電車に乗る訳でもない。車に乗ってしまえば大丈夫だ」
そんなに急ぎます?
「とにかく待てない。早く二人になりたいんだ」
「部長…」
「これ以上引き延ばしたら、梨薫が大変な事になるぞ?」
「部長…」
「…今夜は帰さない」
エレベーターに乗った。
ん?1階?
…まただ。手を引かれ受付の前を通りエントランスを出た。改めて地下に下りた。
「こうしておけば、受付の子が勝手に広めてくれる」
やっぱり…。
「もし、心ない噂がたったとしても大丈夫だ。私に任せておけばいい。何も心配ない」
心ない噂。…部長。それはまさに、離婚の原因が私だったのではないかという…そんな事ですよね。
「私は大丈夫です」
車のドアを開けられ乗った事を確認するとシートベルトを引き、掛けられた。
「この期に及んで逃げられると困るからね」
…あ。そんな事しないけど、撃ち抜かれた気分だ。確保されてしまったようだ。一気にドキドキの音が高くなった。
ドアを閉めて部長も乗り込んだ。エンジンをかけシートベルトをすると、もう右手を握られた。
「こうする事も久しぶりだ」
確かに知る為に会っていた時もドライブしながら話していたが、何もされずに送られた。唇を指に触れさせると車を出した。…本当…ドキッとする事ばかりする。
「どう思っていた?」
「え?」
「俺が何もしない事。それは別だろとか、物足りなく思わなかったか?」
「…違和感みたいな物はありましたよ?部長的には、普通にしていたエスコートする事も、躊躇していましたから」
「じゃあ、何故、してくれと言わない…」
「あ…、それは…部長が決めてしている事だと思ったから…」
「これからも、この先ずっと触れなかったらどうするつもりだった…」
「それは…流石に言います。…寂しいですから」
「ん。良かった。安心したよ」
「え?」
「寂しい時に寂しいと言われなかったら、俺も寂しいからな」
ギュッと握る手に力が入って、また唇を触れさせた。部長…。