恋の人、愛の人。
「……今日も頬、叩かれそうになったんですよ。実際、私は叩かれはしませんでしたけど」
「はあ?何だって?例の奥様にか。おいおい、穏やかじゃないな。まだ疑われてるのか」
お代わり要るかと聞かれたから、頷いて軽いのでと答えた。
「はい。誤解なんですよ?また似たような場面に、突然入って来られて」
「ん?二人で居たのか、部長さんとの事、誤解して来たのか」
「そうですね、そうかもしれません。同じような時間帯で部長室に居た時でしたから」
シャッカシャッカと小気味よい音がする。
「フ。大体それ自体可笑しい話だよな。奥様ってさ、誰か女性が入って行くのを期待して見張ってるのかな。じゃないとそんないつもタイミングがいいのっておかしいよな。二人っきりだとはいえ、会社なんだし、男女だとしても、呼ばれて部屋で二人になる事もない事じゃないよな?
それにさ、二人が怪しい仲でさ、どうしてもそこで何やらしたくなったのなら…用心に鍵くらいするよな?部長室は部長の部屋みたいなもんなんだから。迂闊には妙な事しないのにな?
そんな二人を見て怪しいと勘繰るのは、その奥様、余程何でもいいからこじつけたいって気持ちが強かったって事だろ。でっち上げも甚だしいよな。迷惑な話だ…」
「私、今日、奥様を叩いてしまいました」
「…は?叩いた?こっちからか、関係ないのにか?おいおい何の流れだ」
「うん…何だか、私、かっとなっちゃったみたいで…部長が叩かれたのもあったし、冷静に叩いてた…仕返し、しちゃった」
部長が叩かれた?…。大の男が、非もないのに叩かれたのか。
「妙な行動だな。かっとしたのに冷静とか。勿論、誰も見てなかっただろうけど、人が見たら立派な三角関係だよな、その場面」
「…あ…そうだ。そうですよね。事情を知らない人が見たら、私は夫婦仲を揉めさせた張本人みたいに見えちゃいますね」
思い出してもあれは修羅場だ。冷たい空気が一層冷えた…。
「叩かれた部長の代わりに叩いたみたいな…。そうだな。まあ、そんな偉い人の部屋がある階なんだから、誰も居ないんだろ?」
「ドアも閉まってたし、大丈夫だったと思います」
「だけどさ…全くの想像話だけど、密室から叩かれた奥様が逃げるように出て来て、その少し後から、梨薫ちゃんを気遣いながら部長さんが優しく送り出したとして…そんなところを誰かが見ていなければいいけどな。見られていたら、まんま、訳ありに見える。だろ?」
「大丈夫です。出た時、廊下には誰も居なかったから」
解らないぞ。どこかの影から見られてたとしても気づかないだろう。会社は魔の巣窟だ。部長の位置を付け狙う輩は居ないとは言えないからな。
足を引っ張りそうな事はないに越したことはない。