先生、息の仕方を教えてください
梅雨に入り、毎日どんよりとした空気が漂う季節になった。
この間先生に「本当に保健室を必要としている生徒の迷惑も考えろ」と言われてからは、授業をサボったり、休み時間の全てを保健室に捧げるのをやめた。
だから今先生に会えるのは、放課後のほんの少しの時間だけ。帰りのショートホームルームが終わるとダッシュで保健室に行って、最終下校時刻まで他愛のない雑談をする。
会える時間は少ないけれど、先生も観念したのか、放課後雑談をしに来ることは渋々了解してくれた。
あのあからさまなため息の数も劇的に減ったし、ぽつりぽつりと情報をくれるようになったし、少しは距離が近付いたのかもしれない。
そう思えたから、季節は梅雨の真っただ中だけれど、わたしの気持ちは晴れやかだった。
今日もいつも通り保健室に行くと、雨谷先生はデスクに頬をくっつけて眠っていた。
行事予定表や保健室便りや、明らかに重要そうな書類を顔の下に敷いてしまっているけれど、いいのだろうか。
そしてデスクの上には缶コーヒー。先生がいつも飲んでいるメーカーのコーヒーだ。でも今日はいつものブラックではなく加糖。甘いものは嫌いだと言っていたのに珍しい。
なぜ今日に限って加糖なのか、気になるところではあるけれど、そんなことより先生の寝顔! 初めて見る先生の寝顔だ! 睫毛が長い! 眉毛もきりっとしていて綺麗! あ、左耳の下に小さなほくろがある! ていうか可愛い! 天使の寝顔か!
思わず写真を撮りたくなった気持ちをぐっと堪えて、初めての寝顔に見入る。こんなにレアなもの、しっかり目に焼き付けておかなければ、ともう一歩近付いてみる、と。
「……廣瀬」
「わ!」
「寝込みは襲うなよ」
「お、襲いませんよ」
近付きすぎて気配を感じたのか、雨谷先生がぱちっと目を開け、途端にわたしを睨み上げる。ああ、天使の寝顔タイムが終わってしまった。そして欠伸をひとつ。実は欠伸も初めて見る。見ると、デスクにくっついていた横髪がちょっと跳ねていた。ああ、写真撮りたい……。
「先生、もう放課後ですよ」
「うん、仕事してて目が疲れたからちょっと瞑ってたら、いつの間にか寝てた」
言いながら先生はデスクの缶コーヒーに手を伸ばし、でもそれが加糖だと思い出したのか、ちらりとわたしを見て、……
「廣瀬、コーヒー飲むか?」と、それをこちらに差し出した。
「さっき教頭にもらったんだけど、甘くて飲めねぇんだ」
「え、あ、そ、それ、あああ雨谷先生の、飲みかけ、です、よね?」
「まぁいらねぇならこのまま捨てるけど」
「いりますいります! 今ちょうど喉がからからで干からびそうだったんですわたし!」
慌てて缶コーヒーを奪い取ると、雨谷先生は「なんだよそれ」と言ってくすっと笑う。満面の笑み、とまではいかないけれど、最近はこんな風に小さな笑顔を見せてくれたりもする。
それが嬉しくて嬉しくて。その嬉しさをさらに倍増させるのが、初めて先生からもらったこの缶コーヒー。絶対飲むもんか。家宝にしたい。埃がかぶらないようにラップをして、ずっと部屋に飾っておきたい。いや、でも中身が悪くならないうちに間接キスというのも捨てがたい……。
そんなわたしの葛藤を尻目に、雨谷先生は保健室にある小型の冷蔵庫から、缶コーヒーを取り出して飲み始める。わたしにはまだ早い、いつも通りのブラックコーヒーだ。
「廣瀬も飲めば? 喉からからで干からびそうなんだろ?」
「えっ、いや、はい!」
不敵な笑みを浮かべているところを見ると、わたしがこの缶コーヒーを保存しようか、はたまた間接キスをしてしまうか悩んでいることなんて、お見通しなのだろう。
結局わたしは間接キスをして、缶はこっそり持ち帰り、カビが生えないように洗って乾かして、部屋に飾ることにした。